絶望の中の希望、それでも僕はエールを送りたい。

昨日、まったく別々の文脈で2つのツイートをしてみました。

ひとつはこちら。

そして、もうひとつはこちらです。

今日はこのふたつのツイートに込めた想いについて、少しだけ書いておこうかなあと。

読んでくれたひとに、絶望的な気持ちで読み終えて欲しくない。

最近ずっと意識的に行っていることなのですが、どれだけ絶望的な内容であっても、最後は希望やエールを送りたいと思っていて。

事実を評価して、それをわかりやすく言語化できたとしても、読んだひとが絶望的な気持ちになってしまったら、元も子もない。

「それでも希望はある、そんなエール(解釈)を送りたい」そう思いながら日々発信するようにしています。

どちらも構造は全く同じ。

だから上記のツイートも全く別々の話をしているのですが、140文字の構造は全く同じなんです。

具体的には…

事実

評価(認識や気づき)

絶望

微かな希望(エール)

この順番になっているはずです。

絶望に辿り着いたからこそ、次の一歩を踏み出す勇気にもつながって欲しい。

きっと僕と同じように、ニヒリズムな発想をした結果、絶望しているひとって結構いるはずで。

でもそれは、少しだけ視点を変えれば、希望にも変わり得るかもしれない。

それをどうしても伝えたくて。

「よりわかりやすく言語化した結果、絶望して終わり。」みたいな感じには絶対にしたくない。

その絶望に辿り着いたからこそ、次の一歩を踏み出す勇気につながったらいいなあと心の底から思うのです。

最後に

過去に何度もこのブログにも書いてきていますが、僕は宮崎駿さんの「それでも、この世は生きるに値する」というメッセージが大好き。

鈴木敏夫さんがいつも仰っている「理想を失わない現実主義」という発想も、きっとこういうことなんじゃないかと思っています。

参照:人生を楽しむための教養。 | 隠居系男子

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても何かしらの参考になれば幸いです。

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