今朝ふと気づいてしまったんですが、僕が好きなひとには「下書きの数が多い」と語ってくれるひとが多いなあと。
しかも皆さん、なんだか似たような顔つきで、少し困ったような、半分諦めたようなクシャッとした笑顔で、その事実を教えてくれる。
なぜ僕は、下書き状態のものが多いと語ってくれるひとが好きなんだろう?
そんなことが気になったので、今日はそのことについて考えてみたいと思います。
「まずはとにかく、ひと目に晒せ!」は本当か?
何かを表現しようと思ったら、どうしても増えてしまうのが「下書き」。
書き始めたはいいけれど、書き終えられない…。
書いた経験があるひとは、一度は必ずぶち当たる壁だと思います。
そんな時によく言われるのが、「まずはとにかく、ひと目に晒せ!」ということ。
僕自身もずっとそう思っていましたし、ブログを始めたばかりのひとに相談されたら、今でもそうやって答え続けています。
参照:僕がブログの秘訣を聞かれても「とにかく続けてください」としか言わない理由。 | 隠居系男子
「下書き状態にある」とは「わからない問いを、わからないままにしておく重要性」そのもの。
ただし、矛盾するような話ですが、ある程度書く習慣がついてきて、定期的に書くことができるようになった場合には、「下書き状態」をいつまでキープできるかということがものすごく重要になってくる。
なぜなら、「下書き状態にある」とは「わからない問いを、わからないままにしておく重要性」そのものだからです。
参照:わからない問いを、あえてわからないままにしておくことの重要性。 | 隠居系男子
気合を入れてつくり始めたのにつくり上げられないときって、なんだかものすごくモヤモヤしてしまうじゃないですか。
「あー、もういいや。とにかく出してしまえ!」って思いがち…。
でも、そこでグッと堪えて、「わからないところをわからないまま」にしながら、下書き状態で保ち続けるって、ものすごく胆力が必要なことだと思うんです。
だからこそ、下書きばかりが溜まっていくことって、とても素晴らしいことだと思いますし、僕はそんなひとに惹かれてしまうんだと思います。
最後に
「そうは言ったって、下書きばかりが溜まってしまっても、答えを見つける糸口がなければ、しょうがないじゃないか!」そう思うひともいるかと思います。
それを解決するための手法がきっと、茶道のような「型」であり、「身体性」における反復行為なのかもしれないなあと。
「動く」と「考える」は二律背反のようだけど、セットであるべき理由って、案外そんなところにある気がします。
むしろ先人たちは、それこそが重要であると気づき「型」というものをつくり出して、代々受け継いできたのかも知れません。
そんなことを考える今日このごろです。
いつもこのブログを読んでいる方にとっても、参考になれば幸いです。