ウェブ上の物書きには、“打ちひしがれる経験”が絶対に必要だ。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

「MATCHA – 訪日外国人観光客向けWebマガジン」やこのブログを運営しながら最近よく思うのですが、ウェブ上で文章を書いている全ての人(ブロガー・ライター・編集者など)は、一回打ちひしがれる経験が必要だと思っています。

「これは絶対に読まれる!」っていう根拠のない自信に満ち溢れたところから、全く反応が無くて絶望感に苛まれる・・・やっとそこから全てが始まるのだろうなと。

WEB上というのは、どこまでいっても個人の集合体でしかないんです。そこで何かの力学が働いて、読まれなかったのは「◯◯のせいだ!」って責任転換出来てしまう要素が少しでも入ったら、一生読まれる記事なんて書けるわけがない。

今日はそんな話について、書いてみようと思います。

“丸裸”になってからこそ本当の真価が問われる

誰しもWEB上で文章を書いていれば、「これは絶対にウケる!!」という根拠のない自信で満ち満ち溢れ、夜も眠れない時が必ずやってきます。

それはPV的な意味だけでなく、「こんなコメントがくるだろうなー!」とか、「こんな反応してもらえるだろうなー!」っていうのも含めて全部。

しかし、そんな予想はまず当たりません。恥ずかしいぐらいの“自惚れ”で終わっていきます…。

自分も今日まで1年間毎日このブログを書き続けてきて、本当の意味で狙い当たった記事なんて、突き詰めたら以下の2記事しかありません。365分の2です。

参照
反日デモ最大級のあの日、僕は北京日本大使館の前にいた。 | 隠居系男子

函館蔦屋書店がスゴい!代官山を超え、これを目当てに函館に移住しても良いレベル! | 隠居系男子

ネタを出し切って、それでも全く読まれなくて…でも、そこから続けられるかどうか。それがウェブ上で文章を書いていくという行為なんだと思います。

ある意味で“丸裸”になってからこそ本当の真価が問われるわけで、そこから必死に、しかし淡々とコンテンツを出し続けられるかどうかがカギなんです。

どこまでいっても、個人の時代

これはきっと紙媒体では得られない感覚だと思います。紙媒体だと全体として評価されるだけ。(個人名義で出している書籍でも編集者の意見や出版社の意向が多分に含まれてしまうので。)

しかし、ウェブの場合は1記事ずつに固有のURLが割り当てられ、そのURLが独立してシェアされていきます。決して紙媒体の様にパッケージとして売れていくわけではありません。

1記事ずつの評価が、ダイレクトにあらわれるのがウェブなんです。

完全に「個人の時代」。個人ひとりひとりが自分のURLを持ち続ける限り、どこまで行ってもウェブ上では、個人の集合体でしかありえない。

残酷かもしれませんが、それが今の時代なんだと思います。

そう考えると、たとえウェブ上でチームを組み、一つの媒体を共同で運営していく場合であっても、個人の能力の底上げを図っていくしかない。

「今の時代のチームとは何なのか」を常に問い続け、どれだけ強いチームであっても、自分一人で戦える個人にならなければいけない。

最後に

風の噂で聞いたところによると、あの大手ビジネス誌のウェブ版も、あの挑戦的なビジネス誌のウェブ版も、編集者の自由裁量の部分がかなり大きく、相当な権限が与えられているそうです。

最近では、nanapi代表のけんすうさんも「許可より謝罪」という記事を書いていて、このブログでも取り上げました。

参照:「許可より謝罪」で十分なのに、それを複雑化させてしまっているもの。 | 隠居系男子

「ひとりひとりの人間が試行錯誤して、徹底的に打ちひしがれて、稀にヒットを打つ」みたいな繰り返しが、本当の意味で読まれる記事を作り出すのでしょう。そして、その積み重ねがチームの強さに繋がっていくのだと思います。

本当に残酷な話ですけれど…。最近はそんな風に思います。

それでは今日はこのへんで。

ではではー。

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