どうも鳥井(@hirofumi21)です。
最近よく「読者のリテラシー」という話をします。
何かコンテンツを作るとき、読者のリテラシーに頼らないと説明だらけの記事になっていまい、つまらないモノになってしまう。しかし、それに頼りすぎて読者が誤読してしまっては元も子もない…。
だとすれば、作り手側は何を意識してコンテンツを作っていくべきなのでしょうか。そんなことについて今日は少し書いてみようと思います。
読者は、バカではない。
どうしても自分が書き手の側に回ると、まるで読者は何もわからないかのように書いてしまい、色々な情報を付加していき、説明だらけの記事になっていしまいます。
もちろん、読者が知らないこともあるかもしれませんが、1の情報を与えればそこから読み取ってその周辺の情報を補えるぐらいのリテラシーを読者は持ち合わせています。
読者は決してバカではないんです。知識がなくても、それを読み解く知恵はある。
書いている自分と同様に、ある程度のリテラシーを備えているわけです。そこを信頼しなければ絶対に面白いコンテンツなんて作ることは出来ません。
「間違った情報を与えないように、これを読めば全てが理解できるように」と慎重になればなるほど、括弧や注釈だらけの酷くつまらない文章になってしまうのです。
それこそ、新聞みたいに「スマートフォン(高機能携帯電話)」とか書き始めたり、家電の取扱説明書のようにムダな注意書きが増えていってドンドン分厚くなっていくというような…。
「受け手こそが、王様である。」
しかし、勘違いしてはいけないのは「読者の誤読は、どこまでいっても書き手の責任である」ということです。
読者のリテラシーに頼りコンテンツを作った結果、読者のリテラシー不足で誤読されてしまったとしても「それは誤読だ!読み手のリテラシーが低いからだ!」ど読者を責めてはいけないんです。
これに関して、メディア野郎こと田端信太郎さんが以前面白いことを書いていました。
だいたい、物書きが読者に向かって、誤解だ!誤読だ!というのはとにかくカッコ悪いと私は思っている。コミュニケーションにおいては受け手こそが王様である。アマゾンのレビュー欄で、ネガ評に「誤読だ!」と反論してるような著者はカッコ悪いでしょ? (最初から無視されるべき受け手にはリーチしないようにするのが賢明。)
「なんだ。読者が王様なら、結局誤解がないように丁寧に書かなきゃいけないんじゃないか!」と思うかもしれません。
しかし、そのコンテンツをどんな王様に読んでもらいたいか、それをを決める権利は書き手側にあるわけです。
つまり、自分たちが求めるリテラシーを備えた王様(読者)にリーチして、彼らに届いて欲しい記事をどんどん作っていくべきなのです。
その分野に関する「知識」のレベルはバラバラでも、そうゆう情報を読み取って自分なりに消化できる「知恵」がある人達へ向けて。
参照:平成生まれの高学歴に読んで欲しい。田坂広志著『知性を磨く~「スーパージェネラリスト」の時代』 | 隠居系男子
その時に意識するべきことが“取り扱う内容”なのか、“らしさ”なのか、“雰囲気”なのか、色々な要素が重要になってくるとは思いますが、大切なことは自分たちが求める王様にリーチし好まれるようなコンテンツを絶え間なく作っていくということです。
最後に
今回の話で書いた事は、以下の話にもつながることだと思います。ぜひ合わせて読んでみてください。
参照:WIRED編集長のインタビューから考える、今の時代に受け入れられるメディアとは? | 隠居系男子
ウェブであれ紙の雑誌であれ、メディアは文化です。どんなリテラシーを持ち合わせた人達に集まってもらいたいのか、そんなことを考えていくべきなのでしょう。
それでは今日はこのへんで。
ではではー!