「何を言ったかじゃなくて、誰が言ったか」はブログやメディアでも同じこと。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

昨日こんなことをつぶやきました。

これの意図するところを今日はもう少し書いてみようと思います。

発信する個体が異なれば、多少価値観が異なっていても構わない。

告知したい側というのは、どうしても、その媒体を運営している人の意見として記事を書かせようとしてきます。

でもそれって、結構心理的ハードルが高いことだと思うんですよね。(だから、お金で釣って書かせようとするのだと思いますが、そうすると途端に内容がおもしろくなくなり、胡散臭いものになる…)

でも、寄稿であればその心理的ハードルは一気に下がります。

なぜなら、それは自分の意見じゃないからです。そこの場に集う人たちの意見だから。少しズルいような気もするかもしれませんが、ここでも「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」が重要になってくる。

ブログでもメディアでもその媒体を運営している人たちから直接発信してしまうと、それがその媒体のオフィシャルな意見になってしまう。

しかし、その情報を発信する個体(個人)が異なれば、考え方や意見がその媒体とある程度異なっていても全く問題ない。むしろ、人間なんだから誰一人として同じ価値観を持ち合わせている人がいるわけなくて、それが当然。

あくまでその媒体を核として集った人の一人の考え方であり、意見であり、思想であり、告知であると。そうすることによって、読む側の受け止め方だって全く異なってもくるでしょう。

メディアに求められている役割は、人選。

じゃあ媒体運営者側に求められることは何なのかといえば、その人選をどうするのか、だと思います。誰にどのような機会を与えていくのかっていうのが、媒体の役割。

それも、カオスにならないようにある程度方向づけをすればいいだけであって、厳しい審査基準までは設けなくても良い。(これは媒体の色によりますが)

メディアの機能だったり、コミュニティ(場)の形成っていうのは、そういうところに意味があると思っていて、僕個人としてもそこにとっても興味があります。

最初に誰かが旗を掲げて、毎日発信していくうちに、徐々にその意見に共感する人々がそこに集まってきて、集まってきた者同士でさらにまた多様な意見が交わされて、新しい価値観へと昇華していく。

それこそがメディアの機能であり、場の形成ということの意味だと思っています。

最後に

「人気(ひとけ)があって、リアリティがあって、本質的であること」そうじゃないともうおもしろい人たちは集まってこない。

…ということで、色々と書いてきましたが、隠居系男子では引き続き寄稿を募集していますので、ご興味のある方はぜひ直接お問い合わせください。

参考:ブログ「隠居系男子」で寄稿記事を受け付けようと思います。 | 隠居系男子

それでは今日はこのへんで!

ではではー!

スポンサードリンク