軽薄短小・重厚長大なコンテンツの次にくるものは?

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

今年一年、ウェブコンテンツ業界で一つだけ明確になったことは、「読まれるコンテンツの長さの基準」ではないでしょうか。

「軽薄短小、もしくは重厚長大なコンテンツしか読まれない。その中間、中途半端なコンテンツはスマホ時代には避けられる傾向にある」と。

年末ということで一年を振り返りながらそんなことを考えていたら、糸井重里さんが「インターネット的」の文庫版で追記していた「続・インターネット的」部分でこの話を見事にまとめてくれていました。

参照:2001年出版の糸井重里著『インターネット的』が驚くほどの預言書だった。 | 隠居系男子

誰にでもわかりやすい平易な言葉で書かれていたので、今日はこの部分をご紹介しつつ、来年はどのようなコンテンツが求められていくのか、自分なりに少し考えてみようと思います。

結局はどれも「インターネット」

最近「インターネット」という言葉はほとんど使われなくなってきていて「SNS」や「Facebook」「Twitter」などという言葉に置き換わっている。でも結局はどれも「インターネット」だと糸井さんは言います。

それはファッションと似た話で、Tシャツをカットソーと読んでみたり、ズボンをパンツと読んでみたり、色々と呼び方が変わりつつも結局は言っていることは全て「服」であることと同じことだと。

だから、その表面的な言葉の違いに右往左往させられることないように、全ては「インターネット」であると捉えて考えてみるべきだと書かれています。

「小分け」という概念

ただ、その中でもスマートフォンやTwitterなどに代表される「インターネット的」な部分があるといいます。それが「小分け」であるという概念です。

本文から少し引用してみます。

スマートフォンとツイッターに象徴される「インターネット的」な傾向については注目しておいたほうがいいように思います。それは、コンテンツがどんどん「小分け」になっているということです。

背景にあるのは、おもに受け取る側の都合でしょう。いろんな用事の合間にたのしめる、短いコンテンツ。事前の準備がいらず、味わったあとの解説がいらず、その場だけでパッとたのしむことができる、コンパクトなコンテンツ。たしかにそれはとても便利です。

(中略) 

どちらがいいとか悪いとかいうことではなく、コンテンツの文体が変わってきたということでしょう。ほぼ日刊イトイ新聞でも、じっくり読むタイプの対談コンテンツと、読者のおもしろいメールを毎日1通だけ紹介する小ネタのコーナーが、同じくらいの高いアクセス数を記録しています。

「小分け」の次の新しい芽はなんだろう?

来年もこの「軽薄短小、重厚長大なコンテンツが読まれるという流れ」は更に加速することとなるのでしょう。人々が今よりも更にスマホを通してコンテンツに触れる機会が増えていくことは間違いないので。

参照:バイラルメディアに対する違和感の理由と、”親近感”というハイコンテクストの可能性。 | 隠居系男子

ただ、同時に新しい芽も出てくるはずです。その新しい芽とは何なのでしょう?

“らしさ”が重要視されるコンテンツ?人の顔が思い浮かぶコンテンツ?オープンからクローズド?“皆が作る、皆で作る”っていう方向性?それとも、もっと土臭く泥臭いもの……?

どれも可能性がありそうで、全くなさそうな気もします。笑

でも、一つだけはっきりと言えることは「ウェブコンテンツは入り口でしかない」ということです。たとえどんな方向性に進んだとしても、ウェブコンテンツを読んで終わりにさせない。その一歩先に何を仕掛けられるのかということが今非常に重要になってきているということは間違いありません。

最後に

今のウェブコンテンツには、TwitterやFacebookのシェアボタンデカデカと設置されていて、シェアという行動しか読者に求めていません。

入り口から入ってきてもらった人たちに、シェア以外にどんな行動を期待するのか。今この記事内で具体的に言及はしませんが、来年はそこを明確にしていく必要があるのだろうなと思います。

年末、糸井さんの「インターネット的」を読みながら、そんなことを考えました。

それでは今日はこのへんで。

ではではー!

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