どうも鳥井です。
昨日は、木村衣有子さんの『コッペパンの本』発売記念「コッペパン、書いたり撮ったり」というイベントに登壇させてもらいました。
参照:12月6日(火)開催「title」イベント『コッペパン、書いたり撮ったり』に登壇します。 | 隠居系男子
僕は、木村さんの書く哀愁のある独特な文章が大好きで、イベントに向けて木村さんのフィルターを通して描かれたコッペパンの文章を何度も読み返してきたのですが、気がつけば本当にコッペパンが気になって仕方なくなってしまいました。
なぜこれほどまで、今コッペパンに惹きつけられているのか?
その理由について、「コッペパンの本」のあとがきに書かれていた文章がとても納得できるお話だったので、今日はこの一節を少し引用してご紹介してみようと思います。
コッペパンとカセットテープ
コッペパンがこんなにも求められている理由はどこにあるのだろうと、ずっと探していた。
鍵となる言葉が『フジパン』マーケティング部の小山春菜さんの話の中にあった。
「昔のものを再現するだけでも、若い世代にとっては新しいものになるのかな、と。食べ物ではないですけど、例えばカセットテープ。」
コッペパンはカセットテープ!なんとも、しっくりくるたとえだ。程なくして、本屋で『カセットテープ時代』という一冊を見つけ、めくってみると、やっぱり、コッペパンにもそのままあてはまるのではと思えるくだりがあった。
「カセットテープって一つの時代を彩るアイコンというか、郷愁を感じる要素はすごくあって、それはレコードではないんですよ。レコードは、アーティストが演奏したものを聴くだけで受け身なんですよ。カセットは自分の好きな音楽を吹き込めて自分の分身みたいなものを作れるので、メディアとして、より愛着があるんですよ。」
「自分の好きな音を吹き込めて自分の分身みたいなものを作れる」というところに、コッペパンの具はこれとこれを、と注文して、目の前でそれを挟んでもらう場面が重なる。
ただ懐かしいだけではなく、個人的な記憶と絡み付いて離れない、それだけの力を持っているコッペパンだから、これから新たに出会う人達にも、きっとすっと馴染み、いつか思い出に刻まれるはずだ。
引用元:コッペパンの本 | 木村 衣有子
愛着を持ってもらうためには、一緒に作っている感覚を味わってもらうこと。
「自分の分身みたいなものを作れること」が、愛着を持つことに繋がるというのは、本当にその通りだなと。
そこでふと思ったのですが、最近流行っているフェスなんかもまさにそうですよね。
何年連続で参加したとか、何回連続で参加したとか、フェスが大好きな人達の話を聞かせてもらっていると、完全に一緒に作っている感覚なんですよね。
その結果、個人的な記憶と絡みついて、離れなくなっている印象を受けます。
一緒につくる感覚を味わってもらうためには、一緒に回数を重ねること。
そして、一緒に作る時に大切になることって、「回数」なのかもしれないなと。
最近、ほぼ日で「回数」の話を読んだばかりだからそう思うのかもしれませんが、「回数」って本当に大事ですよね。
参照:第7回 何回やったかが、重要だ。│横尾、細野、糸井、3人が集まった日。 – ほぼ日刊イトイ新聞
一緒につくっているという感覚を持ってもらい、愛着を持ってもらうためには、どれだけ回数を重ねたかが重要になってくる。
考えてみれば、コッペパンだってそうじゃないですか。
給食で何度も何度も飽きるほど食べてきて、その度に「このカスカスして、パサパサしているパンを、今日はどうやって美味しく食べてやろうか?」と毎日試行錯誤を繰り返してきた経験が、誰にでもきっとあるはずです。
回数を重ねてもらうために、長く続けること。
そして、回数を重ねるために、作り手側が絶対に用意するべきは、その機会を提供し続けることなのかもしれないなと。
つまり、長く続けること。簡単に辞めてしまわないことです。
長く続けていることって、やっぱりスゴいことなんですよ。
一方で、どれだけ短期間で急成長したとしても、続けられなかったものには価値がありません。
最後に
今日もまた、「長く続けるべきだ」という結論に着地してしまい、コッペパンのイベントからも遠くかけ離れてしまいました。
がしかし、「長く続けるべき理由は、何度も回数を重ねてもらい、一緒に作っている感覚を持ってもらいつつ、その過程を通じて愛着を持ってもらうため」なのかもしれないなと気がつくことができたので良かったなと。
そんなことを考える、今日このごろです。
それでは今日はこのへんで。
ではではー!