どうも鳥井(@hirofumi21)です。
昨日、「衣食住から始まる『静かな革命』――ネットが変えた都市生活の現在」というシンポジウムに参加してきました。
参加者は…
粟飯原理咲(アイランド代表)
小澤隆生(ヤフー株式会社、執行役員)
佐々木俊尚(作家・ジャーナリスト)
古川健介(nanapi代表、けんすう)
宇野常寛(評論家、PLANETS編集長)
【司会】堀潤(ジャーナリスト、NPO法人8bitNews代表)
非常に興味深い内容が多く、書き残しておきたいことがたくさんあるのですが、その前にもっと大前提として書いておきたいことがあります。
それが、マイルドヤンキーの欠席裁判という現状についてです。
想像で語られるマイルドヤンキー
昨日のイベントでも、新しいライフスタイルという文脈で何十回も「マイルドヤンキー」という言葉が飛び交っていました。
しかし、誰もその実態を的確に語れていません。
『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』という本を読んだり、それに関連する記事を読んで知った気になっているだけという印象を受けました。
「僕の地元にも〜、ユーザーさんの中にも〜」というような漠然とした言葉で濁されるだけで、誰もそこと交わりに行っていないんだろうなと。
なんだろう、この違和感…。
もちろん、木曜日の夕方に「マイルドヤンキー」と呼ばれるような人たちがヒカリエに足を運んでいるわけもなく、完全に欠席裁判の様相を呈していたわけです。
地頭の良い地方在住者が、こういったイベントに論客として参加するべき
このような現象について、LINE執行役員の田端さんは、以前Twitterで以下のようにつぶやいていました。
「マイルドヤンキー」と「リア充」議論は似ている。真のリア充は「リア充」という言葉など知らないし、知ってはいけない。知った瞬間から理念としての「リア充」ではない。マイヤンも同じ。例の本を読んだり、関連の議論を見聞きして「自分ってそうかな?」と思った時点でマイルドヤンキーになれない。
— 田端 信太郎 (@tabbata) 2014, 3月 30
「オレのことをマイルドヤンキーとかラベル貼りしてふざけんなよ!」とか、論客が現れた時点で、その人も、「マイルドヤンキー」たりえない。その意味では、この議論は永遠の「欠席裁判」だよね。
— 田端 信太郎 (@tabbata) 2014, 3月 30
「リア充」と呼ばれる人たちは、論客の方たちのまわりにも生息しているはずですし、観客の皆さんの知人・友人にも多いはずです。
しかし、マイルドヤンキーはそもそも住んでいる場所が違うため、あまり目にする機会がありません。ましてや交流する機会も稀でしょう。あくまで想像上で話をするしかない。
よって、「地方在住の若い人たち」「首都圏周辺の低学歴・低所得者層」という大雑把な括りだけで、マイルドヤンキーを語っている人たちもすごく多いのが現状です。
だからこそ、僕は思うのです。自分は昔マイルドヤンキーだったと自覚している方や、身の回りにそうゆう友人が沢山いるという地方在住者の方が、こういったイベントに論客として参加するべきではないのかと。
確かに田端さんの言うとおり、「私がマイルドヤンキー代表です!」と入ってきた時点で、その人はもうマイルドヤンキーではなくなってしまいます。
しかし、「浮かばれない人生だったな〜」って半分諦めながら、マイルドヤンキーを傍観しながら交流している地頭の良い地方在住者という方々もたくさんいるはずです。
都内でこうゆうイベントが行われるたびにポッカリと穴が空いている状態なので、そうゆう方々がこういった議論に参加すれば、かなり重宝がられて、少なくとも今よりはもっとマシな議論になるのではないでしょうか。
最後に
アイランド代表・粟飯原さんが議論の後半にこんなことを言っていました。
今、世の中が「日々の生活の中に楽しさを求めよう!」という風潮になっていっているのは間違いない。向いている方向はみなさん同じなんです。それを都市型の人たちは自覚的に、マイルドヤンキーの方々は無自覚にやっているという違いだけなのではないでしょうか。
これは完全に同意です。僕も本当にそう思います。
彼らについて語られる時、首都圏の人々は上から目線で語ることが多いですが、実は彼らのほうが直感的に判断していて、人生をしっかりと楽しんでいるのかもしれない。
いわゆる、“地に足の着いた生活”をしているわけです。そうゆう意味では、彼らのほうが未来を直感的に捉えている可能性すらある。
参照:地に足の着いた人々から新しい文化は生まれていく。を伝えたい。 | 隠居系男子
今後、彼らのモノのも見方や考え方などを含め、このへんの新しい生き方がもっと活発に議論されるようになっていけばいいなぁと思います。
それでは今日はこのへんで。
ではではー!