「本を読む」という行為の定義について。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

昨日、新宿伊勢丹で行われた「大切な人への贈り物に、”本とコーヒー”を添えて numabooks代表 内沼晋太郎×<JUN OKAMOTO>デザイナー岡本順」というトークショーに行ってきました。

「毎月おふたりは何冊ぐらいの本を読まれるのですか?」

今日メモ的に書き残しておきたいことは、「本を読むという行為の定義について」。

イベントの後半、モデレーターの方がおふたりに質問していたのが「毎月おふたりは何冊ぐらいの本を読まれるのですか?」という質問です。

内沼晋太郎さんは、「その質問されるとき、毎回僕は困るんですけど…」といいながら、「仕事の関係で読む本は数百冊。僕の目の前を通り過ぎるだけだったら、千冊ぐらいいくかもしれない。でもそれをちゃんと読んでいると言えるかどうかは怪しい…」とおっしゃっていました。

「そもそも、本を読むという定義はなんのか?」

精読して最初から最後まで文字を全て追ったとしても、読後自分の中に何一つ残っていない本もある。一方で、1行しか読んでいないけれど、その1行で人生が変わってしまったという本だってあるはず。どっちが本当に本を読んだといえるのか?だから、いつもこの質問に答えるときに困ってしまう…」と。

何を得られたら、本を読んだといえるのか?

確かに、このご指摘はごもっともだと思います。

最近僕はもっぱらKindleでしか本は読まなくなりましたが、Kindleの端末にダウンロードした書籍の題名が並んだページを何度も繰り返し眺める事があります。本棚の前で、どの本も読まずにずっと背表紙だけを眺めているみたいな感覚に近いのかもしれません。

そこに並んでいる本というのは、自分が興味を持ちたい・持つべきであろうと思い選んだもの。ここを眺めるだけでも、一つ自分の中で意識が変わっていきます。そう考えると、題名を何度も眺めている段階だけでも十分読書をしていると言えそうです。

また、最近だと「シャオミ 爆買いを生む戦略」という本を20%までしか読んでいない段階で記事を書いたりもしました。

参照:「ユーザーと友達になること」の重要性。『シャオミ 爆買いを生む戦略』を読んで。 | 隠居系男子

個人的には「どれだけ世間一般的に良書だとされている本であっても、自分にとって本当に役立つところは5%しか存在しない。その5%が見つけられればラッキーだ!」と思っている側の人間なので、「本を読む」という行為のかハードルはかなり低いほうだと思っています。

一方で、「本を読む」ということは、完読したということだけでは事足りず、今朝ちきりんさんがつぶやいていたような発展形も考えられます。

読了するだけではなく、ここまでやって初めて、1冊を読んだとも言えそうです。

最後に

読書の定義というのは、人それぞれで異なります。10人いれば10通りの「本を読む」が存在するはずです。もしかしたら同じ個人でも、その時と場合によって、読書の定義が変わってくるということさえあり得るかもしれません。

つまり、どこまでいってもその答えというのは存在しない。

しかし、答えがなかったとしても「自分にとって、本を読むという行為の定義はなんなのか?」それを考えてみることで、その過程で自分が重視したいこと、それが自然と見えてきて「自分は何を求めて読書しているのか」ということがわかってくるはずです。

だからこそ、この記事を読んでくれた方々も、ぜひ自分の中での読書の定義とは何なのかということを考えてみて欲しいなぁと思います。

そこから、何かしら気付きを得てもらえれば幸いです。

それでは今日はこのへんで。

ではではー!

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