メディアが勝手に腫れ物にしてしまわないこと。

昨日、以下のラジオ番組を聴きました。

【音声配信】「東京レインボープライド2017閉幕。セクシャル・マイノリティとメディアを考える」牧村朝子×中島潤×冨田格×荻上チキ│TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」

とても示唆に富む内容だったので、メディアに携わっている人にはぜひ聴いてみて欲しいのですが、特に同意してしまったのは「ポリティカル・コレクトネス(通称:ポリコレ)」のお話。

ポリコレを主張をするあまり、そのテーマ自体が腫れ物になってしまう。

LGBTの話題に限らず、メディアが特定のテーマに関してポリコレを主張するあまり、そのテーマ自体が腫れ物になってしまうことってよくありますよね。

強い言葉でポリコレを主張すると、同じ悩みを持つ人たちからは共感の声が溢れ、多くシェアされて、「取り上げてくれてありがとう!」と当事者からの感謝の声もたくさん届くでしょう。それは間違いありません。

しかし一方で、本当に意識が変わって欲しい層の人たちは、ドンドンと遠ざかっていってしまうことも事実です。

結果的に内輪だけの盛り上がりとなってしまい、その他大勢の人たちには「あー、ここに関わると面倒くさそう…。」と思われてしまい、言及さえされなくなってしまいます。

一見、メディアとしては成功しているように見えたとしても、それは本来の趣旨目的からは逸脱してしまっている状態だと言えるでしょう。

「地域移住」の文脈における「若者と老人の対立」。

たとえば、僕らがよく取り上げている「地域移住」の文脈で言えば、地域移住の面倒くさいところの代表例である「移住してきた若者と、既にその土地で暮らしていた老人との衝突」なんてのは、まさにそのひとつと言えます。

地域にいる頭の固い老人たちを「老害」と揶揄しながら、彼らを批判するようなポリコレ記事をつくることは可能です。

「もっと若者に移住して欲しかったら、まずはこの老害たちの意識を変えるべきなんだ!」と。

そうすれば、同じように地域の老人たちから苦しめられてきた人たちから賛同の声も多く届き、「よくぞ言ってくれた!」という反応も散見されるでしょう。

でも、そればかりを主張したところで、本来の目的であったはずの「地域移住も1つの選択肢として捉えて、より良い暮らしを手に入れる人々が増えること」に繋がるのかと言えば、それはまた別の話です。

逆に、「やっぱり地方は面倒くさそうだから、なるべく触れないようにしよう、関わらないようにしよう…」と思ってしまう人が増えてしまうだけではないでしょうか。

正論や理屈で責め立てられると、人は心を閉ざす。

これは賢くて正義感のある人たちが、言葉の力を過信するあまり、犯してしまうミスだと思います。

正論を振りかざす気持ち良さって絶対にあるからこそ、そこに浸らないこと。

“言ってやった感”でご満悦になっていても、仕方がないのです。

正論や理屈で責め立てられると、人は心を閉ざしてしまいます。何が正しいのか頭ではわかっていても、感情が追いつかない人って、世の中にはいっぱいいる。

これがエスカレートしてしまうと、どんどんインテリ層だけの盛り上がりになってしまい、その場にいる誰もが良い方向へと向かうのだろうと思っていたタイミングで、歯に衣着せぬ物言いをする人物が突如現れて、その他大勢のモヤモヤを一気にかっさらい、トランプ現象のようなものが生まれてしまうのでしょう。

参照:僕がポリコレについて思うこと。 | 隠居系男子

最後に

じゃあ、一体どうすればいいのでしょうか?

ぼくの答えは、このブログにも何度も書いてきた通り「小さな現実をつくり出し、楽しそうな後ろ姿を見せること」

参照:「逃げたっていいんだよ!」に感じる違和感の正体。 | 隠居系男子

その結果として、段階的にネガティブな側面を無効化していくのが一番です。

いまポリコレを主張している人たちの多くは、疲弊しているように見えます。なんだかゲッソリしていて、後ろ姿も楽しそうじゃない。

言葉で戦うだけが全てじゃありません。

「ほら、この方が楽しいし、イケてるし、おもしろいじゃん!」と、まずは楽しそうな後ろ姿を見せること。

そのためにはきっと「伝える」ための努力だけじゃなくて、エンタメやアート、デザインなど目線を変えてくれる人たちとうまくタッグを組みながら、生み出す作業も同時に行っていくべきなのだと思います。

参照:今、目線を与えてくれる人がおもしろい。 | 隠居系男子

何かしら皆さんの参考になれば幸いです。

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