あまちゃんが描いた地元とは?宇野常寛の評論から探る地方活性化の秘訣。

あまちゃんメモリーズ    文藝春秋×PLANETS

あまちゃん終了まであと18日、どうも鳥井(@hirofumi21)です。

今日は、あまちゃんはなぜ「地方」をテーマにして、これだけ日本中から愛される作品となりえたのか、その理由を評論家の宇野常寛さんが書いた文章をもとに、自分なりに考えてみたいと思います。

そしてそこから派生し、なぜ「地方を活性化させたい!」と息巻いている人達のインバウンドECサイトのような普及活動が、未だ注目を集められずにいるのかについても書いてみようと思います。

宇野常寛が語る『あまちゃん』

今日この記事を書こうと思ったきっかけは、宇野さんのこの記事です。

【特別掲載】いま・ここに・潜る~宮藤官九郎、再生のシナリオ:メルマガPLANETS:PLANETSチャンネル(宇野常寛) – ニコニコチャンネル:エンタメ

これが非常に面白い内容でした。正直ところどころ、結論ありきで後付の理由かなって思うところもあったのですが、それを差し引いても十分面白い内容です。

クドカンの「地元」に対する考え方

宇野さんはクドカンの「地元」に対する考え方を以下のよう捉えています。少し長いですが引用してみます。

宮藤がこれらの作品(歴代のクドカン作品)で描く「地元」は、それこそ数多くの「朝ドラ」がこれまで描いてきたように「消費社会で忘れ去られようとしている人間の温かみのある歴史と伝統の街」といった物語をストレートに引き受けたものではない。むしろその逆で、こういった「物語」が実のところまったく意味をなさないもの、機能しないもの、嘘であるという認識からスタートしている。

(中略)

北は北海道から南は九州・沖縄までロードサイドにファミレスとパチンコ屋とマクドナルドとブックオフと、そしてイオンのショッピングセンターが並ぶ……。消費環境の画一化が地方の風景をも画一化し、その文化空間をも画一化していく。三浦展のいう「ファスト風土化」を「前提」に宮藤はその「地方」への「地元」へのアプローチを行ってきたのだ。

(中略)

「土地」やそこに紐づいた歴史ではなく、今、ここに生きている仲間たちの記憶とサブカルチャーの生む「偽史」で地元での日常を彩ること。これが初期作品における宮藤のアプローチだった。

クドカンの作品を見ていると、これは確かに伝わってきますよね。木更津キャッツアイの具体例とかもこの記事の中では紹介されているので、興味がある人はぜひ。

地方に新たなカタチの希望を持ち込んだ『あまちゃん』

あまちゃんの舞台は、本当に何も希望がないように思える北三陸市。それでも、劇中に出てくる観光協会は、街の昔からある伝統や歴史を大切にしたいと考え、「北の海女・北三陸鉄道・まめぶ」などをPRしていきます。しかし、それは視聴者含め、誰の目から観ても不可能なことにしか映りませんでした。

クドカンがそれでも「北三陸という過疎の町」に希望を見出だせた理由を、宇野さんは以下のように語ります。

「地方」に希望はないのだろうか?答えは「否」である。宮藤官九朗はこれまで培ってきたノウハウを総動員して「家族」と「地元」に新しい可能性を見出していく。それが「あまちゃん」なのだ。

劇中に登場するアキの親友・ユイはかつての春子をトレースする存在、戦後的なものをトレースする存在だ。だから彼女の敗北は運命づけられている。「ここではない、どこか」に行くことで自己実現を果たそうとすること、上に、大きく伸びることで何かを得ようとするユイが春子の轍を踏むことは最初から決まっていたのだ。

対して、ヒロインのアキは「いま、ここ」に「潜る」。これが宮藤の発見した「地元」への態度だ。たとえそれが「何もない」街だったとしても、木更津と柏の区別すらつかないような街でも、「いま、ここ」にあるものをその場のコミュニティを充実させ、サブカルチャー(アイドル)の力を用いればそこを後付けで意味のある街に、何かの「ある」街にすることができる――。

日本の伝統を海外に発信したい組

話はすこし変わりますが、最近「日本の伝統を蘇らせたい、その素晴らしさを首都圏の日本人や、海外の人にも理解してもらいたい」という若い世代が増えています。

特に、海外へ行って日本への愛着が強くなった日本人に多い傾向があり、今、そうゆう伝統や歴史を紹介したページや、モノを売るサイトが、ドンドンと雨後の筍のように増えています。

具体例を上げると大変失礼なのですが、イメージを共有したほうが話は早いと思うので、著名なところで言うと中田英寿さんのプロジェクトなんかはそれの代表例だと思います。

Revalue Nippon 日本の文化をめぐる旅。

皆このような形に憧れ、取り組んでいるんだと思います。もちろんこのサイトなんかは非常にカッコイイですし、「すごいなー!ヤバいなー!」って思うんですが、それ以上は特に何も無いんですよね…。

ファッションのコレクションを見せられているような感覚で、「うわー、おしゃれ~!」って思うんですけど、「じゃあ買うか?」って言われたら、別に買わないっていう…。

でも、なぜそう思ってしまうのか、自分はずっと疑問でした。
「着眼点もいい、表現の仕方も今っぽい、実際に現地へ足を運んでいる」それぞれの要素は満たしているはずなのに、注目されないんです。

自分も、最初は興味をひかれてサイトを覗いたり、SNSでフォローしてみたりはするのですが、だんだんその興味も薄れていき、結局みなくなるという…。

もちろん、やっている本人たちは、満足出来るているのかもしれません。普段モダンな生活を送る中で、突然ノスタルジックな文化に触れることによって、夏祭りに浴衣着るような高揚感があるでしょうから。

しかし、珍しいものも見せられている方からすれば、慣れてしまうと、次第に「当たり前」という感覚に陥っていきます。「場所を変え、人を変え」で果敢に取り組まれていますが、「またか…」と思うだけです。

地元の人達からしても、そういう人が訪ねてきて、「これをもっと多くの人に知ってもらいましょう!」と言われたところで「販路が拡大しただけ」っていう認識にしかならず、過去の延長線上の出来事の一環としか思わないのではないでしょうか。

そもそも、主従関係の時点で違う気がします。主役は海外の人や、都内の人、その人達に届けるための新しい商品の流行が、大量生産商品から日本の伝統工芸品のようなモノに変わったからそれを売りましょう的な…。結局楽しむ人間は今までと変わっていない。大都市の人間が「主」であり、地方の人間が「従」だと。

地元の人と一緒に共感できるものを探る

こんな状況なので、東京の人達から見ると、滑稽に映ってしまう「ゆるキャラ」とかも、地元の人たちにとっては、よほどそちらのほうが宇野さんの言うところの「偽史」であり、そこには過去の延長線上には存在し得なかった私達の「地元」が広がっていて、地元の人達には愛されていくんでしょう。

「地元の歴史や伝統を大切にして、東京や海外でそれをアピールしていきましょうよ!」と都会育ちが「インバウンド・ECサイト」と横文字を並べて言ったところで、それはファッションに過ぎなくて…。

じゃあ、具体的にはどうすればいいのか。

結局はこのクドカンがあまちゃんで示してくれた方法を含めて、3つのカタチしか今はないんだと思います。

ひとつは、地元の人間と「いま、ここ」にあるものを共有して、一緒に偽史を作っていく。(アキちゃんのように。)

2つ目は、地元の人間と共に偽史を作る環境をプロデュースする。(クドカンのように。)

3つ目は、地元の人間同士で偽史を作り出すための考える契機を設けて、そのきっかけをサポートする。どれだけ反発されても懇切丁寧にサポートを続ける。これは以前もこのブログで紹介したことがある山崎亮さんとかでしょうか。

参照:今、日本の村を巡る旅がしたい。奈良県天川村に惹かれて。 | 隠居系男子

この3つしか、今はないのかなーって思います。

偽史とカンタンに書いてしまいましたが、それも明確な定義はありません。クドカンが示したサブカルもそうかもしれませんが、ゆるキャラやご当地グルメも、もしかしたらそれに含まれているのかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。これは本当に難しいところです…。

先日書いた蔦屋書店の記事とかも、「函館にも東京と同じようにオシャレな場所を作ったから、お茶しに来いや!東京に憧れてんだろ、おまえら!」じゃなくて、「蔦屋作ったから、一緒にこの“場”を使いながら偽史を作っていきましょう!」っていうのが求められているんじゃないかなと。

参照:代官山の蔦屋書店が北海道函館市にもオープンすることに思うこと | 隠居系男子

あまちゃんと、この宇野さんの記事を読んで、僕はそんなふうに思うわけです。

少しでも、この意図が皆さんに伝わったなら幸いです。

それでは今日はこのへんで。

ではではー。

鳥井弘文

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