多動力は身につけるものではなく、開放するもの。

「多動力を身につけたいんです。」

これだけ直接的じゃなくても、最近よく耳にするようになった言葉です。

でも、正直この言葉には少し違和感がありまして…。

多動力って決して身につけるものではないと、僕は思っています。

多動力は開放するもの。

今日はそんな話です。

なぜ多動力は身につけるものではなく、開放するものなのか?

僕ももちろん、多動力のようなものに憧れていた時期はありました。

2011年〜2013年頃に海外で働いて、アジアを旅しまくっていた理由もまさにソレ。

でもそのときに気付きました。自分にはこの生活は合わないと。

何度もこのブログで書いてきたように、僕は判で押したような生活の方が好きでした。

一方で、生まれながらにして多動力のかたまりのような人もいます。

僕の身近にもそんな多動力のかたまりみたいな女性がいます。

改めて紹介するまでもないかもしれないですが、「灯台もと暮らし」編集長の伊佐知美は、本当に多動力のかたまりと呼んでも過言ではないかと思います。

それは、彼女のnoteTwitterを読んでみてもらえればすぐにわかるはず。

彼女の欲求(いや欲望?)に比べると、自分の多動欲求なんて大したことなくて、ゾウとアリぐらいサイズ感が異なります。

彼女はこれまでの人生の中で、自分の中に眠っている多動力を抑圧しすぎてきたタイプなのでしょう。

そんな彼女を見ていると、「あー、多動力は身につけるものではなく、開放するものなんだ。」とまざまざと思い知らされるわけです。

自分のちょうど良いを見つけよう。

もちろん、多動力というのは「移動する距離」だけの話じゃありません。

興味関心軸(思考)における多動力もそう。

「よくそこまで多種多様なものに興味を持てるな…!」っていう人がたまにいます。

だからこそ、多動力については、自分のちょうど良いを見つけましょう。

結局また、何か漠然としたものに憧れて無理をすると自分が辛くなるだけです。

「断捨離」にも揺り戻しがあったように「多動力」にも絶対に揺り戻しがあります。

自分のちょうど良さをみつけること。

「カチっ」って音がする納得感のあるポイントを見つけ出しましょう。

最後に

「そうは言ったって、多動力がないとこれからの世界は生き残れないって言われているじゃないか!」

そう思っている人もいるかもしれません。

そこはチームを組みましょう。多動力のある仲間に全力で乗っかりましょう。

逆説的ですが、個人の時代だからこそ、チームを組む必要があると僕は思っています。

大きな波は、みんなで力を合わせて乗り切りましょう。

参照:チームに平均的な人はいらない。 | 隠居系男子

いつもこのブログを読んでくれている皆さんの少しでも参考になれば幸いです。

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