先日こちらの本を読みまして。
おとなの小論文教室。 (河出文庫) | 山田ズーニー| Amazon
その中でも特にハッとしたのが、ここの一節。
“表現をする人は、「いま」をつかまえることのプロだと。作家にしても、写真家にしても、音楽家も、「いま」をつかまえなければ、二度とできない表現、というのがあって、プロは「いま」しかないという、その「いま」をパッとつかまえると。決して逃さないのだ、と。” https://t.co/5AIvKvOszJ
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年7月2日
“「表現」を、生活と切り離されたユートピアのように仰ぐ人は、「センス」に望み、「どうしたらなれるか」と勉強法にも熱心だ。「いつかその気になれば」と「いつか」を仰ぎ、結局、「いま」を逃しつづけている。結局、何も自分を表現できずにいる。” https://t.co/5AIvKvOszJ
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年7月2日
「いま」とは何か?
じゃあ、「いま」とは何なのか?
どうすれば、その「いま」を表現することができるのか?
僕が思うに、結局のところ「正直になれるかどうか」なのだと思います。
拍子抜けするような話ですが、本当にそう思います。
先週末放送されたNHKのソングスでも、宇多田ヒカルさんが「正直かどうか」を大切にしていると仰っていました。
参照:SONGSスペシャル 「宇多田ヒカル ~時を超える言葉~」│NHKオンデマンド
「ダサいな」と何か違和感を感じたら、絶対にそこを見過ごさないと。
つまり、「いま」を表現するためには、まさにこの瞬間に自分が感じたことを「正直に」表現することが一番なのだと思います。
何か少しでも打算的になった瞬間に、それはもう「いま」じゃなくなってしまう。
特定の誰かに向けられた正直な気持ちや感情、それを各人が得意とする(得意になりたいと願う)手法を用いて、ありのままに表現すること。それが「いま」を表現することなのだと思います。
思えば、僕がこのブログで納得のいく表現ができたなと感じたときも必ず、特定の誰かとのコミュニケーションがきっかけ。
そこで生まれた感情を種にして正直に育めたときに、心の底から納得のいく表現ができたなと実感することができました。
最後に
昨日、別の文脈でこんなツイートもしてみたんです。
最近よく思うのですが、普遍的なものをつくろうと思って普遍的なものをつくることは不可能なんだろうなあと。普遍的に成り得ているものほど、実は特定の個人に向けてつくられている。長くよみ続けられている和歌が特定の個人に向けた恋文のように、歴史的な名著が「親愛なる◯◯へ」から始まるように。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年7月1日
きっと、万人が共感する普遍的なものほど、特定の誰かに向けられた「私とあなた」の「いま」を正直に切り取ってできている。
一見すると矛盾するようにも感じますが、これが真実なのだと思います。
こんな単純なことに気付くまで、僕は30年も掛かってしまいました。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考になれば幸いです。