最近、モノを選ぶときの基準が少し変わってきまして。
具体的にどう変わってきたかと言えば「たとえ自分が愛せなくなったとしても、他の誰かが愛してくれる可能性があるかどうか」でモノを選ぶようになりました。
例えば、洋服なんかでも、
「これは古着屋さんに並ぶ可能性があるだろうか。」
「自分が着なくなったとしても、次にまた他の誰かが愛してくれるだろうか。」
という基準で選ぶようになりました。
愛すべき価値があるものを、みんなで愛していく。
「俺以外にコレを愛せるヤツなんていない!」という考え方は、一見責任感があって美しい覚悟のようにも思えますが、結構傲慢な考え方なのかもしれないなあと思うようになったんです。
流通やテクノロジーの進化で、安価なモノであっても「自分自身に最適化されたもの」を簡単に手に入れやすくなった現代。
でも、なんだかそれって“愛されたい欲求”の発露のような感じがしていて、少し稚拙な気もします。
「愛すべき価値があるものを、みんなで愛していく。」そのほうが僕にとっては心地良いなと思うのです。
以前書いたように、このほうがより胆力を試されているような気持ちにもなる。
「日本の服は肩で着る。」
数年前、とあるデザイナーさんを取材をした際に「日本の服は肩で着る」というお話を伺って、それが今でも強く印象に残っています。
「立体感のある洋服よりも、着物のような平面の服のほうが、日本人にはよく似合うんです。」
この話を聞いたとき、なんだかものすごく腑に落ちたのです。
そして、肩さえあっていれば、他の人にも受け継いでいけるのが日本の服なんだと。
最後に
今日書いてきたような気持ちの変化も、言ってしまえばシェア文化の一つに含まれるのだと思います。
ただ、数年前には考えられなかったような気持ちの変化だったので、備忘録的にもこのブログに書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの気づきにつながれば幸いです。