最近気づいたことがありまして。
たとえ新参者であっても、そこに深みや厚みを感じて信頼に足ると思える感覚ってなんだろうなあって。
たとえば、ファッション。
ファッションって文化(カルチャー)そのものだから、その文化の深みや厚みがものすごく大事になってくる。
その文化に対する信頼感があるかどうかで、そのブランドがイケてるかどうかを判断しているフシさえあると思います。
そう考えると、ある程度しっかりと長く続いたブランドのほうが圧倒的に有利だと思えます。
なぜなら、新興ブランドはその文化の厚みや深みを体現できないから。
でも、実際はそうじゃない。
新興ブランドでも、そこにちゃんと文化が宿って、売れるところは売れていく。
じゃあ一体その新興ブランドに共通する点は何なんだろう…?と考えてみて、そこでふと気がついたんです。
新しくても売れてるところの共通点、それは「縦の系譜」をしっかりと継ぐ覚悟を持っているところだなと。
「自分の言葉」と「借りてきた言葉」の違い。
さて、少し話は変わりますが、今朝こちらの記事を読みまして。
言葉には「自分の言葉」と「借りてきた言葉」が存在して、自分の言葉で考えることが本当の意味での「考える」であると、古賀史健さんは書かれています。
とても納得感があり、共感するお話です。
ただ、よくよく考えてみると、言葉というものはそもそも誰のものでもありません。
それでも、実際に「自分の言葉」で話しているひとと、「借りてきた言葉」で話しているひと、その違いが手に取るようにわかるのは不思議だなと。
「自分の言葉」とはどういう意味なのか?
じゃあ、一体「自分の言葉」とはどういう意味なのか?
僕は、その違いが「言葉の出自を知る」ということなんだと思います。
つまり、上記で述べた「縦の系譜を継ぐ」ということ。
具体的には、ちゃんと縦に掘ったうえで、敬意を持って言葉を使うということなんじゃなかろうかと思うのです。
自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の手で触って、この世に実在することを自分自身で実感したことがあるもの。
そうやって、素材や気候風土に興味を持ち、先人たちの知恵や技術に愛着を持ちながら、それを次世代へと継いでいく覚悟を持つこと。
その行為こそが「借りてきた言葉」から「自分の言葉」にする行為そのものなんだろうなあと。
最後に
その覚悟と敬意さえ持ち合わせていれば、新参者であろうが素人だろうが、しっかりとそこに文化というものは宿るはずなんです。
逆に言うと、どれだけ歴史が長かろうと、この点を疎かにした瞬間にすぐに文化は宿らなくなってしまう…。
そこに残るのは、古びた慣習だけ。
なんだか個人的にはものすごく腑に落ちる感覚だったので、このブログにも備忘録的に書き残しておきました。
今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの参考になれば幸いです。