先日こんなツイートをしてみました。
人からなめられることが嫌な人ほど、他者をなめていることが多いと思います。まずは自分自身が他者を無闇矢鱈になめないこと。しかも表面上だけではなく、「根本思想」でなめないこと。どれだけ丁寧な言葉づかいや、礼儀正しい態度で振る舞ったとしても、なめていることは相手にしっかりと伝わるから。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年3月20日
じゃあ、具体的にどうすればいいのか?思うに、なめるって「相手の理想と現実のギャップを嘲笑う行為」だと思うので、相手が何に成りたいと思っているのか?何をもって覚えられたいと思っているのか?をなるべく早い段階で察知して、既にそれが達成できている人だと思って接することが重要なのかなと。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年3月20日
「一流に触れなさい」その真意とは?
さて、話は少し変わりますが「一流に触れなさい」という言葉って、よく見聞きしますよね。
その理由がなぜなのか?ずっと考えていたんですが、それってきっと「一流は決して他者をなめないから」だと思うんです。
目の前にどんな相手がいるとしても、絶対になめてくることはない。
一流のリゾートホテルや、一流の飲食店などを想像してもらえればわかると思うのですが、こちらがどんな人間であれ、必ず一流のお客様にしてくれる。
逆に言えば、「なめられているな」と感じさせる場所は、一流に見せかけた二流の場所なのだと思います。
民藝も、他者をなめない。
また、一方で「民藝」にも同じことが言えるような気がしていて。
民藝の“モノ”を観たり触れたりしているときは、根本思想でなめられているな、と感じたことはありません。
遊び心やユーモラスを感じることがあっても、「あっ、なめてるな」と感じたことは一度もない。少なくとも僕はそうです。
その驚くほど簡素な佇まいにも関わらず。これって本当に凄いことだなあと思います。(「簡素である ≒ 誰でも使える」なわけだから)
最後に
「一流にふれなさい」や「本物に触れなさい」という教えはきっと、この「他者をなめない感覚に触れなさい」という教えでもあるのかなと思います。
思うにひとは、他者から売られた喧嘩はどうしても買いたくなってしまうんですよね。
それはもう人間の性であり、回避するためには相当な鍛錬が必要になる。
ということは、ニワトリと卵のような話で、他者をなめずにいられるようになるためには、まずは他者からなめられない環境に身をおいて、その感覚を自分の中で当たり前にしていく必要があるわけです。
そんなことを考える今日この頃。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの参考になったら幸いです。