僕は「これからの○○を考える」をテーマに掲げて活動することが多いです。
このブログのテーマは「これからの生き方を考える」ですし、「灯台もと暮らし」は「これからの暮らしを考える」です。
また、「Wasei Salon」の新テーマは「これからの働くを考える」。
そうすると、考えることが何よりも大切そうだと思っていそうだからなのか、「考えないひと」を否定するタイプのひとから同意を求められることも多いです。
でも僕は、考えないことが悪いことだとは一切思ってません。
なぜなら、すべての「考える」は、限りなく趣味に近づいていくはずだから。
今日はそんなお話を少しだけ。
「考えない」が悪いわけでは決してない。
どうしても、自分が必死に考えていることを蔑ろにしたり、疎かにしていたりする人をみると、イラッとしてしまうのが人間です。
特に、自分や大切なひとが「生き残る」ために考えていることに関しては、なおさらです。
でも当然、考えることは人それぞれ異なっていても一向に構わないわけで。
考えない(考えさせない)ことが、悪いわけでは決してない。
「洗濯を考えさせない」が洗濯機だし、「掃除を考えさせない」がルンバなわけですしね。
「生きるために考えるべきことを、考えなくても済むように」
そう願いを込めて、人類は社会の仕組みを変化させながら、物質的な豊かさも獲得しつつ、進歩発展してきました。
「生き残るために考える」は限りなくゼロに近づく。
そうやって考えてくると、「生き残るために考える」は、今後限りなくゼロに近づいていくことがわかるかと思います。
これが結構重要なことだと僕は思うんですよね。
「人類は暇になり、仕事はすべて遊びになる」は、AIの発展と共に最近よく聞く話ですが、それはきっと本当で、考えることさえもすべて趣味になっていくはずです。
そうすると、自分が考えていることを、他者に強要することがどれだけバカげたことなのかがよくわかると思うんです。
だってそれは自分の「趣味」でしかないんですから。
最後に
それよりも、僕らが本当に意識したほうがいいことは「一般的に考えなければいけないと思われていること、それに自分自身の足が引っ張られすぎないようにすること」なんだろうなあと。
そして、いま自分が考えたいと思っていることが、本当に考えられている状態なのか?の方が重要になってくる。
言い換えれば、「いまここに集中するための機会や環境、仲間をちゃんと見つけられているかどうか」のほうが大切だなって思うのです。
なぜなら、その身勝手で趣味としての「考える」こそが、これからの人類の「生きがい」につながっていくはずなのだから。
まだまだ上手く言えないですが、そんなことを考えている今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの参考になったら幸いです。