昨日こんなツイートをしてみました。
これは勝手な想像なんだけど、いま語学を学ぶひとが増えている理由って「分かり合えた」とか「通じ合えた」っていう感動が他国の言語だとより大きくなるからだと思っていて。実際、今もただ中国人から道を聞かれただけなのに、それがちゃんと相手に伝わるとやっぱり母国語とは違う喜びや感動があった。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年6月13日
努力して手に入れた健やかなコミュニケーションって、やっぱりかけがえのない喜びや感動に繋がるはずなんだよね。それはきっと教養や表現力にも同じことが言えるはずで。でも語学の方がその効果をわかりやすく得られるから、無意識下の「通じ合いたい」欲求から語学を学ぶひとが増えているのかなって。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年6月13日
最近、まわりに語学を学び始めるひとが多いです。
その理由はきっと、通じ合えたときの喜びや感動が大きいからなんだろうなあと。
「理解したい」「通じ合いたい」から学ぶ語学。
思うにひとは、努力して手に入れたコミュニケーション手法を、わざわざ他者を罵倒するためには使わないと思うんです。
他国の人間に文句や批判を言いたいがために、わざわざその国の語学を学ぶひとなんて、まずいないですもんね。
やっぱり「理解したい」「通じ合いたい」っていう根源的な欲求があるから、語学を獲得しようとするはずです。
母国語による汚い言葉や他者を罵る言葉も、欲求の根源は同じ。
ただ一方で、母国語による汚い言葉や他者を罵る言葉も、根源は同じなのかなと。
怒りや怖れ、悲しみが先立ち、他者を拒絶し「理解したくない」という拒否反応が生み出すもの。
その言葉の向けられている対象は相手のようで相手ではなく、その周辺にいる人に向けて発せられ、そこで発話者が求めているのは、むしろその怒りや怖れ、悲しみという感情に対しての共感だったりして。
きっと、もともとは同じ欲求からの発露なんだと思うんです。
他者と「つながりたい」や「通じ合いたい」欲求から生じたコミュニケーションが、全く逆のベクトルで発露し、それらは表裏一体の関係なんだと思います。
最後に
だとしたら僕は、怒らず、恐れす、悲しまず、自らの努力を通じて獲得した健やかなコミュニケーション手段で、他者を理解し、他者と通じ合いたい。
それがたとえどれだけ困難な道だったとしても、学ぼうとする姿勢を常に持ち続けたいです。
そんなことを考える今日このごろ。
今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても何かしらの気付きに繋がったら幸いです。