昨日こんなツイートをしてみました。
ひとは、いろいろなものを他者と共有したいと願うけれど、共有して一番心が満たされるものは「記憶」なんだろうなあ。友人や家族、恋人が何者にも代えがたいのは、その「記憶」を共有しているからなのだと思う。であれば逆説的に、少しでも多くの記憶を共有すれば、重要度は自然と上がるんだと思う。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) July 29, 2019
「読み手と友達以上になれているか?」
「どうすれば自分がつくったコンテンツを読んでもらえるのか?」という話をするたびに、僕は「読み手と友達以上になれているか?」という話をします。
「彼氏からのメール(今ならLINEのメッセージ)以上に強いコンテンツがない」という、あの有名な話です。
それってつまり「相手と記憶を共有できているかどうか」ってことなのだと思います。
これだけコンテンツが溢れていて、ありとあらゆる場所に情報が転がっている時代には、緊急かつ重要性の高いニュース以外は、記憶を共有できていないひとの話なんて聞こうと思わない。
記憶の交差点を探る。
「いやいやいや、はじめましてのひとの話だって聞くぞ!」と思う方もきっと、その初対面のひととの記憶の交差点を探るはずです。
青春時代に聞いていた音楽とか、若い頃に着ていた洋服の話とか、出身地や地元の話とか、そうやって何かしらの記憶の共通点を探すことで打ち解けようとするはずです。
それぐらい記憶の共有って、人間同士の距離を縮める力が強いんです。
記憶の疑似体験。
ファンとアーティストの関係性、タレントと視聴者の関係性もそう。
彼らは、多くのひとたちと記憶を共有しているから、たくさんの人々に情報を届けられるんですよね。
ただ、それも「記憶」の疑似体験に過ぎない。
観る側と観られる側が明確に区別されていて、観る側が勝手に記憶しているだけ。(観られる側は「記憶」の公開・提供をしているだけ)
自分が当事者として登場する記憶には、絶対に勝てません。
つまり、友人や家族、恋人が発信するコンテンツには勝てない。
だから、やっぱり「記憶」を共有していくしかないのだなと。
それ以外にもう、手段はないじゃないのかなあと思います。
最後に
じゃあ、そのためには具体的に何をすればいいのか?
それは僕にもわかりません。
宮崎駿さんの作品のように、日本人の誰しもが「懐かしい」と感じる里山風景を描いて、潜在的な記憶を作品上で共有するのか、本当に同じ時間を過ごし、生の記憶を“私とあなた”で共有するのか。
ただ、この「記憶を共有する」という視点が、今とても重要な視点だなと思ったので今日のブログに書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの気付きにつながれば幸いです。