テキスト至上主義の人間が「写真とは何か」を考えてみる。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

さて今日は「写真」について。

最近、色々なところで写真を見る機会も増えてきて、「写真とは何か?」を自分の中で考える機会が多いので、ここで少し考えをまとめてみようかなと思います。

加工されていない写真というものは、存在しない。

写真についてブログ書こうと思っていたところで、丁度以下の記事がバズっていました。

【写真】カメラは「真実を写す機械」だと思っている人に言いたい5つのこと : 超音速備忘録

普段から「隠居系男子」を読んでくれている方には言うまでもないですが、僕は完全に「テキスト至上主義」の人間です。

この記事は、そんな僕でもわかりやすいように、“写真の加工”という意味について、その概念といいますか、定義のようなものを上手く説明してくれています。

つまるところ「この世に加工されいていない写真なんていうものは存在しない」というのがこの記事の主張であって、写真の素人こそ読んでおく価値があると思います。

写真は“自己表現”のひとつである。

さてさて、この記事を読んで改めて思うのは、写真というのは「自己表現」のひとつなんだと。

僕は常々、写真を撮っている人間には2パターン存在すると思っています。

ひとつは、自己表現があまり得意ではなく、日常の一枚を切り取って「自分の伝えたいことはこれなんだ。」ということをさりげなくアピールするタイプ。

そしてもうひとつは、もともと自己主張が強くて、ガンガン話すしガンガン書くし、とにかく自己表現できるものであれば何でも試してみて、それでも自分の伝えたいことが伝え足りないと感じているから、更に写真にも手を出す!!というタイプ。

前者はいわゆる写真家のイメージで、後者は芸能人が写真にハマりやすいことなんかを考えてもらえれば、わかりやすいかなと。

前者にとっては、写真は自己表現をするための最後の砦であり、自分が他者とつながるための唯一の方法。後者にとっては、数ある自己表現方法のヒトツであって、多少性質は違いますが、やはりどちらも自己表現の一環であるといえます。

自己表現が他人に伝わる瞬間。

さて、そんな自己表現のひとつが写真なわけですが、「自己表現が他人に伝わる瞬間」というのは一体どういった場面なのでしょうか。

この点僕は、ブログ論でもよく言われるように、自分が観たもの・感じたものをデフォルメして、「あー、観たかったものはこれだったんだ!」と相手に思わせることが、他人に伝わる瞬間だと思っています。

読者の言葉にならない感情を代弁して、テキストに落としこんでみせてあげることと同様に、観る側が観たいと思っているものを切り取って加工し、表現してあげる。それが他人に伝わる瞬間なのだと思います。

見せるべきは”被写体そのもの”というより、“その人の中にイメージとして存在する被写体そのもの”ではないかと。

そして、「感動」というものは、その人がまだイメージしたことがない、しかし確実にその延長線上に存在する感覚や、価値観のようなものが表現されていた時に生まれてくるのでしょう。

わかりやすく言えば、実物とは全然違うはずなのに、モデルの特徴を誇張して描く、観光地にある似顔絵サービスなんかがそれに近い印象です。

写真は“自慰行為”にみえやすい。

さて、上記の理由から自分には全くピンとこず「フーン」で終わってしまうことも多いのが、写真です。

むしろ、自分が嫌悪感を抱く感情を逆撫でするようにデフォルメがなされていると、無関心を通り越して「なんだまた自慰行為か」と蔑んで捉えてしまうということも、正直多々あるわけです。

もちろんテキストにも、そう見て取れるモノは山ほどあるわけですが、写真の場合は嫌でも目に入ってきてしまうので、一目観ただけで撮影者の表面上の意図が伝わってきてしまいます。

文章に関しては、見せられている側が意識して読もうとしない限り頭に入ってきませんが、写真はそうではない。

だから写真の場合は尚更、自慰行為を見せつけられている感がスゴくて、そこで抱かれる感情もテキストのソレに比べて感情の起伏が大きいのだろうなと。

最後に

写真は非言語コミュニケーションの代表的な手段です。

非言語コミュニケーションというのは、言語では表現しきれないほどの情報量が多分に含まれているコミュニケーションを指すわけで、届ける情報量が多いからこそ、様々な段階がすっ飛ばされて理解されてしまう危険性もあるわけです。

瞬時に伝わるというメリットもありつつ、他人の家に土足で上がり込むようなことにもなりかねないということ。

言語やロジックという非常に少ない情報量でやりとりされるコミュニケーションしか信じられない人間もいれば、それを超越した情報量を包括させることで核心をついてこようとする人間もいます。

これはどちらがより優れているかというよりも「正義の反対は、また別の正義」論と同様で、決着がつくような問題ではなく、その落とし所を探るのが一番大切なのかなと。

この自分を含めた文系野郎たちにどうやったら受け入れてもらえるのか、感動させることが出来るのか、「ふ~ん」とか「気色悪い」にならないような落とし所を探っていくことが、自分が今見つけるべきポイントなんだろうと感じています。

最後は大分まとまりのない文章になってしまいましたが、こんなことを近頃考えているよーっていう、まさに自慰行為的な文章でした。笑

それでは今日はこのへんで。

ではではー。

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