最近、こちらの書籍を読みまして。
どの対談も非常におもしろい内容なのですが、特にグラフィックデザイナー・原研哉さんと菅付雅信さんの対談がおもしろかったです。
今日はその内容のご紹介と、自分の感想を少しだけ。
「エンプティな状況こそ豊穣だ」という考え方。
さっそく、僕が目からウロコが落ちた部分を少し引用してみます。
原 僕は自分のデザインの中に日本の伝統的なアイコンを放り込むことは好きじゃないです。むしろ避けてきた。ただ、自分の感覚の中を探ると、西洋のシンプリシティとは違うものが出てくるのです。独特の簡潔さとでもいうか。つまり 簡素・簡潔には「シンプル」とは異なる「エンプティ」の系譜というものがある と思うんです。
150年前に西洋社会がモダンにシフトしてシンプリシティという概念が生まれた。でも、日本はその300年以上前、 15 世紀の末に、これとは別の系譜の簡潔さに到達しちゃっているわけです。
(中略)
四方を見渡しても障子とふすま以外何もない。そういう簡素さを指して僕は「からっぽ=エンプティ」 と言っています。何にもない方が人のイマジネーションを受け入れる余白が多い。だから エンプティな状況こそ豊穣だという考え方がこの時代に生まれてくる わけです。生け花も茶の湯も、庭も建築も、調度やしつらえも基本的にエンプティなんですね。
自分が言いたいシンプルさは、「からっぽ=エンプティ」という感覚だった。
いかがでしょうか。
僕もこのブログを書いている時に、簡素・簡潔からくる“豊穣さ”を主張したくて、「シンプルであれ!」ということを何度か書いたことがあります。
でも、この対談を読んでいてハッと気づいたんです。
「あー、自分が『シンプルであれ!』と主張しているときは、どちらかと言えば、この『エンプティ』という感覚を主張したい時だったんだろうな」と。
最後に
今日の気付きは本当にただそれだけなんですが、自分の中では大きな価値観の変化だったので、明確にこのブログに書き残しておきました。
さて、そうすると僕の関心ごとは「メディア」や「コミュニティ」にどうやったら、この「エンプティ」という感覚を落とし込めるのか、になっていくわけです。
いま、コミュニティに関してよく言われている「余白」という言葉なんかは、もしかしたらそれに近い感覚なのかもしれません。
「設計しすぎない、余白を持たせることの重要性」と合わせて、これからは意識的に「日本的な『エンプティ』という感覚とは何なのか」についても同時に考えていきたいです。
今日の気付きがいつもこのブログを読んでくださっている方々にも何かしらの参考になれば幸いです。