良し悪しは「文明」好き嫌いは「文化」

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

最近、このブログでもよく取り上げる「文化」や「好き嫌い」のお話。

なかなか難しいテーマなので、ここ最近ずっと考え続けてきました。最近やっとその答えが見えてきたような感じがするので、この辺で一度まとめておきたいと思います。

「文明や文化、個人の好き嫌いは全て連続したもの。」

一番腑に落ちる説明をしてくれたのは、『「好き嫌い」と経営』という本の著者である楠木建さん。

特に「文化」と「文明」の違いについて「好き嫌い」を用いながら説明してくれた部分が非常にわかりやすかったです。少し長めですが大切な部分なので本書から引用してみます。

国や社会によって例外はありますが、この100年ほど「人を人種や宗教によって差別してはいけない」というのは、わりと普遍的な価値観になっている。僕らが「文明」と呼んでいるのはこうしたことですね。

さらにローカルなほうへと寄せていくと「文化」になる。文化というのは基本的に好き嫌いの問題だと僕は捉えています。例によって司馬遼太郎がうまいことを言っているのですが、「文化というのは一定範囲の人々の間で受け入れられているもので、そのなかにいる人にとっては心地いいもの」。文化は本来的にローカルなもので、範囲があります。その範囲のなかでは良し悪しなのですが、境界を越えて外に出てしまうと良し悪しとしては通用しない。

さらに楠木さんは、「京都文化」や「企業文化」を例にあげて以下のように続けます。

1章で永守重信さん(日本電産の創業者)が京都の文化について語っておられますが、こうした地域というのがたとえば文化の範囲ですね。京都という地域のなかにいる人にとっては良し悪しであっても、外から見れば京都人に固有の好き嫌いということになる。

会社の「企業文化」というのもそれと同じで、その組織のなかでは「共有された価値観」であり、「これが正しい」「これは間違っている」という基準になるものですが、本質的にはその組織にローカルな好き嫌いですね。これに対して、異なった文化、すなわち異なった好き嫌いを尊重しなくてはいけないというのは、文明の範疇です。「自分と違う他者を認める」というのはかなり普遍的な価値観で、好き嫌い以前の良し悪しの問題。

──なるほど。良し悪しは文明、好き嫌いは文化である、と。

楠木 要するに、連続したものだということです。文明として受容されている普遍的な価値観をどんどん局所化していった先にあるのが個人の好き嫌いですね。国や地域といったわりと大きな範囲での文化はその中間で、良し悪しともいえるし好き嫌いだともいえる。

今、文化の違いを実際に体感する意味とは?

今僕らは様々な文化を知る必要があるのだと思います。そして、それを知るために実際に現地へ赴く必要があるのだと。最近ご紹介した『弱いつながり』は、それを理解する上で必読の書籍でした。

参照
現代を生きる旅好きの若者に読んで欲しい!東浩紀著『弱いつながり 検索ワードを探す旅』 | 隠居系男子

観光はグローバル化をプラットフォームとしている。 | 隠居系男子

色々な文化があることを実際に肌で感じない限り、他者の文化を本当の意味で理解する事はできません。何事も「良し悪し」で判断してしまい、正論を振りかざし「これは間違っている!」と断罪してしまいます。

特にネットの中で記号化されたものばかりを眺めていると、よりその傾向が強くなる。

日本語の「常識」という言葉が“文明”について語っているように思えて、実は“文化”を語っているだけだというのもその最たる例でしょう。

たとえば、東南アジアに実際に行ってみてその気候風土を感じたり、中国へ実際に行ってみてその国民性を体感した上でその国の文化を振り返ってみると「そりゃそうなるわ!」と理解できるようになったりするわけです。

参照
「すごい勢いで日本化するアジア」を読んで思うこと。 | 隠居系男子

反日デモ最大級のあの日、僕は北京日本大使館の前にいた。 | 隠居系男子

正論ではなく“なぜそうなったのか”で物事を判断できるようになるわけです。それがまさしく多様性を認めるという話にも繋がっていくのでしょう。

参照:「多様性を認めない人は認めない!」って言ってる多様性が多いというお話。 | 隠居系男子

最後に

最近よく考えてきた「良し悪し・好き嫌い」「文明・文化」「グローバル・ローカル」「多様性」などの話がやっと腑に落ちた気がします。

「MATCHA」という訪日外国人向けのウェブメディアを運営するようになり、世界における「日本の文化」とは何なのかということをとても意識するようになりました。

しかしそこに、ライターさん一人ひとりの「好き嫌い」や「グローバル」という文脈が絡んでくると、一体自分たちが今何を取り上げ、何について議論しているのかということがわからなくなることもしばしば…。

楠木さんが仰るように「それらは連続したものである」ということを理解すると、今自分たちが発信しようとしていることが「文明」なのか「文化」なのか、それとも単に「個人の好き嫌い」なのか、そこに立ち返ることができるようになりました。

あとは、これをドンドン実践に落としこんでいくのが大切なのでしょう。

これを読んでくださった皆さんの気付きにも繋がっていれば幸いです。

それでは今日はこのへんで。

ではではー。

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