ウェブメディアは研究成果を発表する場に。

どうも鳥井です。

連続テレビ小説「とと姉ちゃん」はもう終わってしまいましたが、引き続き花森安治という人の影を追っています。

そこで今日は、最近読んだ「花森安治伝―日本の暮しをかえた男―」という書籍にあった、初期の「暮しの手帖」の研究室について少し書いてみようと思います。

「暮しの手帖」の凄まじい実験の数々。

「暮しの手帖」が色々な実験をしていたことは有名なお話。

以下のツイートを見てもらえれば、その実験の凄まじさが伝わってくるはずです。

「研究所あっての『暮しの手帖』だった。」

「暮しの手帖」は、このような様々な実験を行うために「研究室」を設けたそう。

そのお話がとても興味深かったので、少し引用してみます。

一九五三年(昭和二十八年)の誌名変更にさきだち、花森は知人の紹介で港区麻布狸穴町(現・東麻布)のソ連(現・ロシア)大使館のそばに土地を入手し、みずからの設計で二階建ての社屋を新築して、そこに「暮しの手帖研究室」という看板をかかげた。

当初はスタジオ兼実験室だけだったが、その後、少しずつ土地を買い足しては増築をかさね、編集部や総務・営業部もつぎつぎに銀座から東麻布に移ってくる。

しかし、その看板はあくまでも「研究室」であり、「暮しの手帖社」でも「暮しの手帖編集室」でもなかった点にご注目あれ。並みの社屋ではない。

(中略)

あれは雑誌あっての研究所というよりも、どちらかといえば研究所あっての『暮しの手帖』だった。どうも、そうひっくりかえして考えてみたほうがよさそうなのである。

ウェブメディアを研究成果を発表する場に。

これが今日の題名にも通じる、「ウェブメディアは研究成果を発表する場に」ということ。

もちろん、何かの情報を得て、それをそのまま伝えるためのメディアも大事ですし、近代に発展を遂げたメディアはそれを生業にしているところが多いです。

しかし、戦後間もないタイミングに創刊された「暮しの手帖」という雑誌がそうであったように、今のウェブメディアも「情報の伝達手段」としてのメディアではなく、研究成果の発表の場として使うべきだと思うのです。

参照:イベント「くらしのきほん × 箱庭 × 灯台もと暮らし=?『そうか、僕らはくらしのプラットフォームを作りたかったんだ。』」を開催しました。 | 隠居系男子

研究成果発表の場の具体例。

例えば、イケダハヤトさんやキングコング西野さんなどは、まさに今それを実行しようとしているタイミング。

また、発酵デザイナー・小倉ヒラクさんも「発酵ラボ」を山梨の空き地に作ろうとしており、そのタイミングを虎視眈々と狙っている気がします。

これからの時代、地方のガラガラな土地を利用して、そこを「研究室」としながら、ウェブメディアを運営していく人たちはドンドンと増えていくのだろうなと。

究極のモラトリアム期間。

さて、話は少し変わりますが、僕はよくメディアが好きな人間だと思われがちです。

しかし、実際はそんなことなく、そこまでメディアが好きな人間ではありません。

これからの時代は、何をやるにしても情報発信能力は必要不可欠だから、そのための手段だと割り切って運営しているフシがある。

少なくとも今は、その気持ちのほうが強いです。

だから、誤解を恐れずにいえば、今の「灯台もと暮らし」を運営している期間というのは、実のところ「究極のモラトリアム期間」だったりします。

最後に

行き着く先は、きっと「研究室」。

今日(11月1日)から僕らは固定のオフィスを持たなくなりましたが、いつか「研究室」という場を、リアル・バーチャル問わず、持つことになるのかもしれません。

参照:「移動する編集部」にそろそろチャレンジしてみたいと思います。 | 隠居系男子

もし花森安治さんがインターネットのある時代に生まれていたら、いま何を仕掛けていたのか。そんなことを妄想しながら、もう少しこのモラトリアム期間を楽しんでみたいと思います。

最後にもう一度本書から引用しておきます。

つまるところ、われわれの本来の目的は雑誌づくりより研究なのだ。

日本人の暮らしのどこを変え、どこをあえて変えないか。極端にいってしまえば、われわれの雑誌はその研究の成果を効果的に発表しつづけるための道具にすぎない。

いかに奇妙にきこえようとも、戦後の花森は、おそらく一貫してそう考えていたのだと思う。

僕らがこれから「暮らし」の何を研究していくのか、自分たちでも楽しみです。

それでは今日はこのへんで。

ではではー!

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