どうも鳥井(@hirofumi21)です。
今年は、少人数の勉強会やある程度遮断されたクローズドなコミュニティが流行ると思っています。
それはきっと、いまの若者にとって「お山の大将」で「井の中の蛙」になれる空間のはじまり。今日はそんなことについて少し書いてみようかなと。
過疎地域に移住した若者たちが活き活きして見える理由。
雑誌「TURNS」や「ソトコト」に出てくるような、日本の過疎地域で小さなコミュニティを作りあげて、ある種ヒッピー的な生き方をしている若者たちがなぜ活き活きしているように見られるのでしょうか?
参照:「TURNS」内田樹インタビュー「地方でとことん突き詰めて考える」ということ | 隠居系男子
僕は、ここにはふたつの理由があると思っています。
1.閉ざされたコミュニティであること
まずひとつは、自分たちだけの閉ざされたコミュニティになっているということ。
もちろんネット上で繋がっている他のコミュニティに属している人も多いですが、やはり目の前に集まっている人たちと一緒に作り上げているコミュニティの方が圧倒的に強固なものになります。その人たちにとって、どちらがより大きな影響力を与えているかは明らかでしょう。
たまに地方へ取材に行って「どうしてここまで楽観的になれるのだろう…?」と疑問に思うこともあったりするのですが、閉鎖的なコミュニティの及ぼす影響力と言うのは、それぐらい大きなものなのだとも実感します。
2.物理的な空間があり、それが「見える化」されていること
そしてもうひとつの理由は、本当の意味で「物理的な空間」によって遮断されているということでしょう。ある敷地一体が「自分たちの場所」と思えるようなところになっているのです。
先日とある方を取材している時にふと思ったのですが、過疎地域で自分たちの場所を作り、実際に何か活動している若者たちは、その「見える化」によって、一緒に手を動かしている感覚を味わい、より強いコミュニティになっているのだろうなと。
ネット上にも「有料サロン」など似たようなコミュニティだったりムーブメントは起きつつありますが、やっぱりそこには「自分たちの場所」という感覚がありませんし、一緒に手を動かしている感覚はないのが実情です。
ネット上のコミュニティが疲弊していくワケ
根本的には、ネットも過疎地域の若者たちも目指している方向性は同じだと思います。
しかし、ネットのムーブメントの方が疲弊していく一方で、地方は「見える化」し、遮断されている空間の中で「なんか俺たち今すごいことしているよな!?」っていう達成感や、ある種の“勘違い”をしているわけです。これはとても大きな違い。
ネットだとオープンになりすぎてしまっているせいで、そこまでに到達する前にすぐに横槍が入ってしまう。できない理由を並べ立てて批判され、その圧力に潰されて成熟する前に空中分解させられてしまうわけです。
まずは、挑戦するための意欲をもつことが大切。
今、東京や海外には、昨今のノマドブームに代表されるような発想に感化されて自由に動きまわり発信してみた結果、総スカンされて自分は何者でもないと打ちのめされている若者が多いです。
そんな若者たちを横目で見て、「ほらみたことか、夢なんか見やがって!」と罵倒してくるサラリーマンやニートの若者なんかも同じぐらい多いわけです。
でも地方はその対立構造にはお構いなく、批判的な意見が全く飛んでこない、本当に限られた少人数の中で完結できている。
もちろん、そこにはカルト的な熱狂も必ず生まれてくるでしょう。でも今求められているのは間違いなくそういった互いの存在感を認識して励まし合える空間。
そこで根拠のない自信をつけた後に、東京や世界で挑戦してみてボコボコになればいいのだと思います。その失敗体験の中から生まれる一筋の光のようなものが、また次の一歩に繋がっていくはずですから。
だからこそまずは、挑戦するための意欲をもつことが何よりも大切なのではないでしょうか。
最後に
そのためにも、今の若者たちに絶対的に必要なのは、自分たちが「お山の大将」であり「井の中の蛙」になれる空間。
最近、オンラインサロンを準備しているという人たちも有名無名問わずかなり増えてきており、よく耳に入ってくるようになりました。
参照:いまクローズドな空間で書くこと、語ること。 | 隠居系男子
今年1年でこの動きは更に活発化するような気がしています。なんたって、今年の大河ドラマが吉田松陰の松下村塾ですからね。
「東京の田舎化」はこのようなネット上の動きから発展していくのかもしれません。
参照:湘南T-SITEに行って改めて実感した「本は雑貨になるべきだ」ということ。 | 隠居系男子
それでは今日はこのへんで。
ではではー!