模倣されるということ。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

最近、大変ありがたいことに、自分のことを模倣してもらえる機会が増えてきました。

ブログもそうなんですが、考え方だったり、話し方だったり、色々な要素で「あ、いま模倣してもらえているんだな」と感じることが増えてきたんです。

自分の目標の一つに「横展開できるモデルを提案したい」ということがあるので、この状況はとても嬉しいことなのですが、最近までこの現象にちょっとした違和感も感じていました。

今日はそんな話について少し備忘録的に書き残しておこうと思います。

相手の中に、自分の「つまらない」を見つける時がある。

じゃあ具体的にそれがどんな違和感か?と言えば、他者のふとした言動の中に、自分を見つけて、それがとてつもなくつまらないなって驚愕する瞬間があるのです。

絶対に誤解して欲しくないので、ここは強調して書いておきますが、決してその相手のことがつまらないと言っているわけじゃないですよ。

模倣されている自分、その自分の要素に対して、つまらないなと感じるんです。

他者に自分の要素を見つけた時に「自分は普段なんてつまらないことを言っているんだろう…」と、無性に恥ずかしくなってきて、穴があったら入りたくなるような気分。

「自分に関わってくれている人というのは、自分を映し出す鏡だ」というのはよく言われる話ですが、まさにそれを実感する瞬間でもあります。常に目の前に鏡を置かれているような。

その一瞬だけ相手が相手ではなくなり、自分の顔に置き換わり、「おまえは、こういう人間だ」って、つきつけられているような気分になるんです。

他者の模倣は、自分の内面を映し出す鏡。

最近まで、この違和感を感じるたびに、なんとも言えない気持ちに苛まれていました。ただ、今はとてもありがたいなと思えるようになってきた。

自分にとって、自己を省みる鏡が増えてくるということは非常に良いことです。そして、自分が毎日発信してきたからこそ、こうなったとも言えるわけで。

本物の鏡というのは、自分の外見を映し出すためのものですが、これは自分の内面を映し出すことができる鏡なのだろうなと。

「人の振り見て我が振り直せ」という言葉がありますが、これは他者がやらかしたミスに対して、自分は同じ過ちを犯さないようにしろという意味だけではない。

もしかしたら、他人に映る自分を見つけた時に、そこに違和感を感じたら、我がふりを見直せという意味でもあるのかなと。

他人が実践してくれるからこそ、気づけることがある。

僕は洋服買うときに、時々店員さんに対して「ちょっと着てみてもらってもいいですか?」ってお願いすることがあるんですが、なんだかあの感覚に似ています。

自分って一番身近な存在のくせに、自分の事は鏡を通してじゃないと認識できないようになっている。

他人が実践してくれるからこそ気づけることがあるように、模倣してくれるからこそ気づけることって間違いなくあるんです。

その中で、とても嫌な部分を見つけたら、見て見ぬふりもできるけれど、我がふりを見直す良い機会にもなる。

見直せる機会が日常の中に増えて、改良するためのチャンスも増えたというわけですから、これはとってもありがたいことなんだなと。

最後に

ただし、いくら身の回りにそんな自分の内面を映し出す鏡が増えてきたとしても、あくまで自分の主観でしかそれを眺めることはできません。そして、その修正点を判断するのもまた自分です。

そこには必ず限界がある。だからこそ、最後はやっぱり耳の痛い指摘をしてくれる第三者が必要になってくるんですよね。

幸いなことに、うちのメンバー(特に女性陣)は、一向に僕のイエスマンになってくれる気配はなく(笑)、そんな僕の片鱗を見つけるとガンガン否定してきてくれます。

これがとってもありがたい。耳が痛いことを言ってくれる人が、自分の周りからいなくなったら終わりです。

鏡に写った自分の嫌な部分をしっかりと直視しつつ、耳の痛い指摘にもちゃんと耳を傾けながら、これからも日々精進していきたいと思います。

それでは今日はこの辺で。

ではではー!

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