「暮らし」というテーマに人生を賭けることの意味。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

世の中が「Pokémon GO」の話題で持ちきりなので、このブログなんて誰も読まないだろうと予測し、今日は普段では少し書きにくい、ちょっと大事なことを書いておこうと思います。

「どうして今『暮しの手帖』を取り上げようと思ったのか?」

最近、以下の様なツイートをしました。

具体的には、下記の部分です。

−−どうして今『暮しの手帖』を取り上げようと思ったのでしょうか?

 

 90年代までの日本は、成長の時代でした。仕事があって、働けば働くほど見返りがあった時代です。そこでは、家族という経済活動の基盤が当たり前のものとして存在していました。そして誰もが、永遠にそういう世の中が続くと思っていた。そういう時代に花森安治を取り上げてもあまり価値を持たなかったかもしれません。

 

 経済が盤石で生活に困らない時代には、人々は自己実現を求めました。恋愛とか、仕事のやりがいによって、世の中や人に認められていくこと。だからテレビドラマもそういう価値を追い求めるものが多かったんです。

 

 でも90年代後半から、バブル崩壊後の不況や、阪神淡路大震災があって、家族を基盤にした社会の安定というイメージが陰ってきたんです。安定した経済の基盤としての家族という、昔は当たり前にあったものが、なかなか手に入らない特別なものになってきています。そうやって暮らしが揺らいでいる。

 

 こういう今の時代には、花森さんが残した「人間の暮らしは何者も犯してはならない」という言葉は、とても強いメッセージ性を持っています。社会不安が増して、未来への見通しが立たない世の中では、工夫して生きるとか、毎日を大切にするというものが、大きな意味を持つようになりました。

引用元:NHK『とと姉ちゃん』から見る東大 花森安治の青春を「帝国大学新聞」で振り返る – 東大新聞オンライン

「暮らし」というテーマは、人生を賭けるだけの価値があるのか?

正直、今日まで何度も「これからの暮らしなんて考えたところで、世の中は変わんねぇよ。」と卑屈になり、本当に「暮らし」とは自分が人生を賭けて取り組むテーマなのか逡巡してきました。

でも、やっとわかった気がするんです。

ここ数年でわかりやすく平和じゃなくなってきている世界情勢の中で、この時代に生まれた自分が、「暮らし」という何の変哲もないテーマに人生を賭ける意味というのが。

「自分にとって大切な『暮らし』とは何か?」を気づくために。

「世界平和のために私たちは何をしたらいいですか?」という質問に対し、あのマザーテレサも、こう言ったそうです。

「すぐにお国にお帰りなさい。家に帰って家族を大切にしなさい。」と。

インターネットが普及して、世界中の情報がすぐに手元に届くようになり、ますます灯台下暗しになりがちな今の世の中において、地に足のついた生活を取り戻していくことの大切さ。

この世界に生きる一人ひとりが、自分にとって大切な「暮らし」とは何かに気づけるようになること、それが今一番求められていることだと思います。

そのために自分の人生を賭けるのは、とても尊いことなのではないのかなと。

僕らのような受け手に最も近いメディアだからこそ、できることが必ずあると思っています。

最後に

僕は、花森さんの言葉の中で「眼は高く、手は低く。」という言葉が一番好きなんです。

意味としては、「格好悪くても、誰かからバカにされようとも、いつも自分の手を地につけて、自分の手で現実をつかまえること。そうやって、手を低くしていると、自然と現実が見えてくる。さらに、手を低くすることによって、眼は自然と高くなって、遠くが見えてくる。」という意味だそうです。

自分たちのこれまでの経験を踏まえて考えてみても、本当にそう思います。

この時代に生まれた者として、僕たちも僕たちらしく、この「眼は高く、手は低く。」ということを淡々と実践していきたいと思います。

灯台もと暮らし[もとくら]|これからの暮らしを考える情報ウェブメディア

それでは今日はこの辺で。

ではではー。

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