「何を書くか」じゃなくて「誰が書くか」が重要になってきた。

どうも鳥井です。

今朝、こんなツイートをしました。

参照:「MERY見れなくてさみしいよ」――女の子たちには何が“特別”だったの?愛読者に聞く

興味がなくても書けるのは、プロ中のプロだけ。

ということで、当事者意識を持てないことを書いていても仕方ないよ、と言いたかったです。

当事者意識が希薄でも、一流の記事に仕上げられるのは、プロ中のプロだけ。

でも、上の世代の人たちは言います。

たとえ自分が興味のないことであっても、読まれる原稿として仕上げられて初めて、プロのライター(編集者)なんだと。

発信者側が限られていた時代に成立した話。

でも、本当にそうなのでしょうか?

僕は、それって発信者側が限られていた時代の話だと思うんです。

確かに、発信者側が限られていた時代には、そもそも情報が枯渇していたわけですから、そんな職業ライターさんが“金銭を得るため”だけに書いたような記事だとしても、多くの方に歓迎して読んでもらえたでしょう。

しかし、今は違います。

本当に好きな人が書いた熱量溢れる記事が、読者に寄り添うような形でネット上にたくさん公開されている。

そんな風にコンテンツが世の中に溢れていて、受け手側もお腹いっぱいの時代に、誰がそんな記事を好んで読みたいと思うのでしょうか。

いざとなったときに本当に頼れるのは、気心知れた信頼できる友人や家族。

自分が本気で何かに悩んでいるときのことを思い出してみても、そうです。

いざとなったときに頼もしいと思えるのは、高尚なことを何でも教えてくれるコンサルタントより、隣で一緒に悩んでくれる気心しれた友人や家族じゃないですか。

もっと極端な例で言えば、永遠の愛を誓って家に全く帰ってこない福山雅治よりも、寂しい時にちゃんとそばにいてくれて、ただ隣で寄り添ってくれる星野源じゃないですか。

結局は、そういうことなんじゃないかと思います。

みんな、福山雅治を目指しすぎです。

最後に

最近、糸井重里さんのインタビューを拝見するたびに「本当に好きなこと以外は、仕事として請けないようにした」という話をしているのをよく目にします。

川村元気さんも先日のトークイベントで「自分が本当に知りたいと思ったことだけを書く」という趣旨のことを仰っていました。

参照:既に入れ替わってしまっている“前提”を改めて捉え直すということ。 | 隠居系男子

その意味が少しずつわかってきたような気がします。

今の時代、「好きなことを仕事にできたら、いいよね!」じゃなくて「生存戦略のために、好きなこと以外を仕事にしたらマズい」んです。

プロ中のプロが「自分が本当に好きなこと以外は、仕事として請けない」と言ってる時に、僕らのような凡人が好きでも嫌いでもない中途半端な事やってちゃいけないんだと思います。

今日のお話が、このブログを読んでくださっている皆さんの参考にもなれば幸いです。

それでは今日はこのへんで。

ではではー!

追記:好きなことを仕事にするための方法は、下記の有料noteで公開しています。
次世代を生きる若者が、好きなモノに囲まれた人生を送るための唯一の方法。|鳥井弘文|note

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