いま、自発的に求める制限や不自由さについて。

昨日、こんなツイートをしてみました。


よくある保守的な考え方だなあと思われた方も多いかもしれません。

でも、こんな時代だからこそ、いま自発的に求める「制限」や「不自由さ」について真剣に考えてみたほうが良いと思うんですよね。

もちろん僕だって、古めかしい型をぶっ壊して自由になりたい気持ちはよくわかります。

これだけいろいろな型(旧体制)が形骸化していく中で、僕も同様の気分を感じ取っているし、実際に日々何かと壊したい衝動にも駆られています。

自由になった先にどうなりたいの?

でも、その先の在りたい姿が明確でないまま自由を獲得しようとしたところで、目的地がないまま草原に放り出されるようなものだと思うんですよね。

確かに、自由になればなんでも好き勝手にできるかもしれない。

かと言って、自由になった先にどうなりたいのか?という未来が描けていなければ、それさえも不幸になる気がしていて。

まず在りたい姿を明確にすることが大事。

だからこそ僕は、まず在りたい姿を明確にすることが大事だと思っていて。

そこに近づくための道筋を、先人たちの叡智にも照らし合わせながら、自分なりに必死で考えてみる。

その上で何かしらの「制限」や「不自由さ」が存在したほうが良ければ、それは自ら率先して選び取っていくべきなんだろうなあと。

それはちょうど、ルールがあるからこそ、おもしろくなるスポーツのような感覚にも近いのかもしれません。

そして、その基準は自分の中に存在する倫理観のようなものかもしれないし、自分の中にある美意識のようなものなのかもしれない。

最後に

最後はかなり抽象的な話に着地してしまいましたが、そんなことを考えている今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にも何かしらの参考になったら幸いです。

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。