共生しようとする心。

今朝こんなツイートをしてみました。


くまの置物は、冷静に考えたら狂気の沙汰。

冷静に考えたら、くまの置物とかって意味わかんないじゃないですか。

自分の仲間を殺した可能性があるものを、置物にして崇めるとか。狂気の沙汰ですよ。

もしこのご時世にそんなTシャツを着ていたら、たぶん大炎上ですよ。

でも、そこにいるんだから仕方ないんですよね。あの山に棲んでいるんだから仕方ない。

そういった諦めみたいなものを感じ取れるし、なんならちょっと楽しそうなんですよね。

呪いじゃなくて、愛に変換しようとしている。

参照:何かを稼いでいる感覚の正体。 | 隠居系男子

「共生しよう」という強い意志や心意気がそこに感じられるんです。

思い通りにはいかないものと折り合いをつける。

美しいものって、往々にして悲しみだったり寂しさだったり、そういったネガティブな感情をポジティブな諦めに変換しようという背景が見え隠れすることが多い気がします。

きっと、先人たちはそうやって思い通りにはいかないものと折り合いをつけながら、自分たちの暮らしを少しでも豊かにしようと知恵や想像力を働かせていたんだろうなあって。

だからこそ、現代の理解し合えない人間同士だって、そうやって楽しさに変えられないのかなあ、と。

たとえば、落語の話に出てくる主人公だって、どうしようもない人たちばかりじゃないですか。

お金にルーズだったり、酒に溺れていたり…。

でも、そんな話を聞いて笑っていたわけですよね。仕方ねえヤツだなあって。

おもしろがる心というか、楽しさに変換する気持ちの余裕みたいなものを、僕たちは自分たちの意志で獲得できるはずなんです。

最後に

この世の中を悲観するのではなく、「楽しむためにどうすればいいのか?」を常々考えながら生きていきたいものですよね。

参照:人生を楽しむための教養。 | 隠居系男子

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの参考になれば幸いです。

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