今朝こんなツイートをしてみました。
今って、立場の違う者同士が相手の言動を説明するときに、「珍獣の奇行」みたいな語り口で語りがちじゃないですか。地球の裏側にいる気持ち悪い昆虫を説明するときみたいな。気持ちはよく分かるんですけど、やっぱりそうやって互いに語り合っているうちは、理解し合えるわけがないと思うんですよ。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年11月19日
いや、理解し合えなくてもいいですけど、居場所を侵食し合わないことが大切だと思うんです。相手の行動を珍獣の奇行にしてしまったら、やっぱりどうしても排除の方向に向かうわけで。近くに住んでは欲しくない存在になっちゃう。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年11月19日
そう考えたときに、里山文化が残っている地域に行くとよく思うのですが、自分たちの生活をおびやかす動物や自然災害を上手に物語に昇華して、ときには妖怪や神様にしてみたり、偶像崇拝のような形で人形にしてみたりしながら、共生しようと試みていることが素晴らしいことだなあっていつも思うんです。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年11月19日
人間同士だから、動物や自然に見立てることはおかしいと思うけれど、そうやって絶対に理解し合えない者同士でも、共生しようと知恵や想像力を働かせることは素晴らしいことだなあと。そして都会との一番の違いは「人間」が世界の中心じゃないこと。自然や動植物もすべて並列で共生の対象なんですよね。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年11月19日
くまの置物は、冷静に考えたら狂気の沙汰。
冷静に考えたら、くまの置物とかって意味わかんないじゃないですか。
自分の仲間を殺した可能性があるものを、置物にして崇めるとか。狂気の沙汰ですよ。
もしこのご時世にそんなTシャツを着ていたら、たぶん大炎上ですよ。
でも、そこにいるんだから仕方ないんですよね。あの山に棲んでいるんだから仕方ない。
そういった諦めみたいなものを感じ取れるし、なんならちょっと楽しそうなんですよね。
呪いじゃなくて、愛に変換しようとしている。
「共生しよう」という強い意志や心意気がそこに感じられるんです。
思い通りにはいかないものと折り合いをつける。
美しいものって、往々にして悲しみだったり寂しさだったり、そういったネガティブな感情をポジティブな諦めに変換しようという背景が見え隠れすることが多い気がします。
きっと、先人たちはそうやって思い通りにはいかないものと折り合いをつけながら、自分たちの暮らしを少しでも豊かにしようと知恵や想像力を働かせていたんだろうなあって。
だからこそ、現代の理解し合えない人間同士だって、そうやって楽しさに変えられないのかなあ、と。
たとえば、落語の話に出てくる主人公だって、どうしようもない人たちばかりじゃないですか。
お金にルーズだったり、酒に溺れていたり…。
でも、そんな話を聞いて笑っていたわけですよね。仕方ねえヤツだなあって。
おもしろがる心というか、楽しさに変換する気持ちの余裕みたいなものを、僕たちは自分たちの意志で獲得できるはずなんです。
最後に
この世の中を悲観するのではなく、「楽しむためにどうすればいいのか?」を常々考えながら生きていきたいものですよね。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの参考になれば幸いです。