内田樹著『修業論』の額縁問題は、現代に生きる上で大切な考え方

修業論 (光文社新書)

内田樹さんもこのブログで登場率高いですね、どうも鳥井(@hirofumi21)です。

今日は光文社新書から出ている内田樹さんの新刊『修業論』をご紹介したいと思います。

難解な書籍です

まず、この本は、新書なんですが理解するのにかなり時間がかかります。1周目ではまず理解できません。僕も多分半分も理解できていないと思います。

内田さんの書籍は比較的わかりやすい書籍が多い中で、これは意外でした。内田さんご本人もあとがきの中で”なかなか歯ごたえのある書物だったのではないか”と書いているので、ご本人もそう感じているのだと思います。

章構成

題名が『修行論』というだけでは、どんな内容なのか想像がつかないと思うので、まずは章構成を。

まえがき
第1節 修行論ー合気道私見

  1. 修行とはなにか
  2. 無敵とはなにか
  3. 無敵の探求
  4. 弱さの構造
  5. 「居着き」からの開放
  6. 稽古論

第2節 身体と瞑想

  1. 瞑想とはなにか
  2. 武道から観た瞑想
  3. 「運身の理」と瞑想

第3節 現代における信仰と修業

第4節 武道家としての坂本龍馬

  1. 修業ーなぜ、司馬遼太郎はそれを描かなかったのか
  2. 剣の修業が生んだ「生きる達人」

あとがき

…という感じになっています。
章構成だけみても、かなり抽象的な内容の本だということは伝わると思います。最後の坂本龍馬について語っているところなんかは、非常に分かりやすく比較的読みやすいんですけどね。

額縁問題

このブログでは、あえてひとつのテーマに絞って書いてみようと思います。ページ数で言うと、10ページ程度でしかない部分ではあるのですが、この部分がこのブログを読んでいる方にもすぐに参考になると思うので、ココに焦点を絞って書いてみます。

額縁問題とは

少し長いですが、本文から、引用します。

どこまでが「壁」で、どこから「絵」が始まるのかというのが額縁問題。

(中略)

世界が動いて見えるとき、「絵」が動いて「地」が停止しているのか、「地」が動いて「絵」が停止しているのか、どこからどこまでが「額縁の中」で、どこから「私自身を含んだ現実」が始まるのかは、にわかには決しがたい。
「額縁」と言うのは、「絵を囲っているもの」である。「この中に描かれているのは、現実ではありません。絵です」ということを、私達に指示するのが額縁の役割である。
額縁を見落とした者は、ダ・ヴィンチの「モナリザ」をみても、それを「壁の模様」だと思い込んで、傑作を見落としてしまう。また実際には「絵」に隠されて壁の模様は見えなくなっているのだから、彼がそこにみたものは「壁の模様」でさえない。つまり、額縁を見落としたものは、「モナリザ」も「壁の模様」も、どちらも見落としているのである。
額縁を見落としたものは世界のすべてを見落とす可能性がある。

(中略)

私たちは、世界を前にしたとき、無意識のうちに「どこに境界線があるのか。何が額縁か。」を最優先に気づかっている。そこを超えた時には、事象を解消するしかたを変え、言葉の使い方を変え、身体感覚を変性させなければならないからである。そういう境界線がどこかにある。それを見落としてはならない。現にそれを見落としていないがゆえに、私たちは気が狂うことなしに日常生活を送ることができているのである。

だが「気が狂う」ことを回避している代償を、私たちは別の形で支払ってもいる。
それは、自分が無意識のうちに選んだひとつの「額縁」に、縛り付けられているということである。
そこを超えたら目に見えるもの、耳に聞こえるものの解釈を変えなければならない境界線を私達は自分でセットしておきながら、自分でそれをセットしたことを忘れている。
無意識のうちにしたことだから、しかたがない。意識的にやっていることなら、修正や入れ替えも可能だが、無意識にしてしまったことについて、「私は
無意識のうちに何をしてしまったのか」を問うことは絶望的にむずかしい。

(中略)

人間は額縁がないと世界認識ができない。だが、ひとつの額縁に固執すると、やはり適切な世界認識ができない。

(中略)

私達が適切に生きようと望むなら、そのつど世界認識に最適な額縁を選択することが出来なければならない。

額縁を「意味の度量衡」と言い換えてもよい。目の前に出現した「もの」に、最適の「意味の度量衡」をあてがうことである。

「重さ」を量るべきなのか、「長さ」をはかるべきなのか、「速度」を計るべきなのか、「粘度」や「光度」を計るべきなのか。
それを私達は瞬時に判断することを求められている。

額縁をもう少しわかりやすく

いかがだったでしょうか、うまく解釈することが出来ましたか?

ものすごくカンタンに言ってしまうと、僕らは自分が勝手に・無意識のうちに視点や視座を設定してしまっていて、それに従って価値観を生成し、世の中のことを判断しているというわけです。

これを内田さんは額縁を例にとって説明しているわけですね。

額縁は何によって形成される?

このような”額縁”は何によって形成されるのでしょうか。

これには、様々な要因が考えられると思います。

例えば生まれ育った時代・環境・場所なんかがそれにあたります。また、今現在自分がいる立ち位置・コミュニティ・職業なんかもそこに含まれるかもしれません。

「こういったもので、形成されている」ということは意識的に理解することができても、今まさに目の前にある「モノ」に対して、自分が無意識のうちに設定する”額縁”は、自分ではなかなかコントロールすることが出来るものではありません。

これを変えるため、更に最適なものをあてがうためには、上記で上げたような形成されている要因そのものから変化させていかなければいけないわけです。

根本的な要因を断ち切らない限り、意識してもすぐにまたもとに戻ってしまうということは理解して頂けると思います。

あなたの”額縁”は?

ここまで読んでくれた方は、もう勘ぐっているかもしれませんね。

「だから、海外へ行け!とか、会社辞めろ!とか、そうゆうステレオタイプな解決策でも提示するんだろう?」と。

でも、いや、違います。

別にそこを提案したいわけではないんです。この話から僕が伝わればいいなと思っているのは、「無意識的に“額縁”が設定されているということを理解して欲しい」というその一点だけなんです。

たしかに、そういった具体的な行動が、今の自分のズレているかもしれない額縁を取り払い、最適な額縁をあてがう上で有効なときもあるかもしれません。日本という国が、あまりにも異常値的な国であるということは、やはり海外に出て初めて気がつくことであり、日本で形成された自分の額縁はかなり異常な額縁だったんだなって発見できるいい契機になるかもしれません。

でも、この額縁問題の解決策に関しては本当に人それぞれだと思います。日本を一度も出たことがなくても、それどころか地元を一度も離れたことがなくても、額縁の調節がいつも最適な人間だって世の中には沢山います。

本当にここで大切なのは、「自分が無意識に額縁を設定してしまっているんだと、常に自覚的であること。」それが今回僕がこの本を読了して、このブログで皆さんに伝えたかった一番のメッセージです。

最後に

あえて、最後まで書いてきませんでしたが、この「額縁問題」は、「第2節 身体と瞑想」の中で語られている内容です。つまり、「瞑想とはなにか」を語る上でこの「額縁問題」は取り上げられているんです、本書の中では。

もっとわかりやすくいうと、本来であれば地下5階ぐらいの深さで語られているような、ふかーい内容の話を、あえて地下1階ぐらいまで引き上げて、簡略化して書いています。

書いています。というより、そう書かざるをえないです。そう書かないと、自分でも迷宮に迷い込んでしまう可能性があったので…。ココは純粋に自分の理解力と文章力の無さが原因で、本当に悔しい限りです。

本書は、それほど深い内容を取り扱っていて、それでいてしっかりと論理立てて説明してくれています。

ここまで哲学的な内容を、これほどまで論理的に語っている本もなかなか無いのではないでしょうか。少なくとも僕が読んできた限りでは、まず読んだことがありません。

これからの時代、精神世界に関する分野がより活発になると言われています。しかし、今までロジックの世界で生きてきた僕らからすると、やはりとっつきにくいというか、眉唾ものとして捉えてしまいがちです。

そういった中で、『修業論』のような書籍が、その溝を埋めていってくれるような気がしています。そんな意味でもこれからの時代をあらわしている本ではないでしょうか。

気になった方はぜひ読んでみてください!
Kindle版もあります!

それでは今日はこのへんで!

ではではー。

鳥井弘文

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