デジハリ大阪校イベントの打ち上げ終盤、主催者の松永さんがおもむろに聞いてきました。
「鳥井さん、世界ってきれいですか…?」と。
あまりにもド直球な質問だっただけに、しっかりと答えられたかどうか不安だったので、少しだけ自分の考えをこのブログにまとめておきたいと思います。
世界はもともと無色透明。
たぶん、世界はきれいでも汚くもなくて、もともと。
自分がどう見るのか?どう見たいのか?に尽きるんだと思います。
だからこそ「事実」をちゃんと知ることも同じぐらい大切だなと。
事実を知ればもちろん、残酷だと気付いたり、汚いなと思ったりすることもあるでしょう。
でも、その「事実」を突きつけられてもなお、拗らせない強さを持ち合わせたい。
宮﨑駿さんが引退記者会見で仰っていたように、「それでも、この世は生きるに値する。」そう信じて主張し続けることができるかどうかなんだろうなあと。
僕はそれを“諦めたピュア感”とも呼んでいて、そんな諦めたピュア感を持った人が大好きなんです。
もちろん、いつもこのブログで言っているように「理想を失わない現実主義」だって同じことだと思います。
参照:「虚構が未来をつくる」その事実を忘れない。 | 隠居系男子
楽しく生きるための手段として教養。
じゃあ、どうすれば拗らせないように自己を保つことができるのか?
それが、僕は「教養」だったのだと思うんですよ。
自分が生きている世界だけで完結するのであれば、それこそ「知識」と「経験」だけあれば十分。
でもやっぱり、他者と生きる、異なる価値観を持った人たちと共存するっていうことになれば、その時にきっと「知識」を越えた「教養」が必要になってくるんだと思うんです。
だからこそ、「教養」とは本来、つまらない人生を楽しくするものだったはず。
昔の人は、楽しく生きるため手段として教養を身につけたんだと思うんですよ。他者と世界を理解するために。
それがいつしか、他者にマウントを取るための手段として教養が使われるようになってしまった…。
でも、いま問われているのは、こんな混沌とした世の中とつまらない人生を目一杯おもしろがるための教養なのだと思うのです。
最後に
改めて、世の中のすべての事象は「おもしろいかどうか」ではなく「自分がおもしろがれるかどうか」に尽きるのだと思います。
だからこそ、そのことを皆で考えるための場だったり空間だったり、メディアなんかを積極的につくっていきたいなあと思っている今日このごろです。
今日の個人的な気付きが、いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの気付きにつながれば幸いです。