義務感と使命感の話。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

昨日、上野公園を散歩している中で「使命感」の話になりました。

この「使命感」という感覚が、最近とっても大切だなと思うのです。

「使命感」という言葉を思い出すときに、僕がいつも思い出すのは、宮﨑駿さんの言葉。

宮﨑駿さんが記者会見など人前で話すたびに「僕はこれを描かなければいけないと思った」という話をよくするのですが、僕はこの語り口がとても好きで、いつもその言葉に心打たれてきました。

自己と向き合う中で、自然と湧き上がってくるもの、それが使命感。

一方で、使命感に似て非なるもの、それが義務感だと思います。

義務感も同じように、「〜しなければならない」っていう拘束力を持ちますが、それは外的要因からくるもの。

法や社会通念に従って、やらなければいけないと感じることです。

でも、使命感というのはそうじゃない。文字通り、自分が「命を使いたいと感じるもの」なのかなと。

誰からも強要されることなく、お願いさえされていないのに、自己と向き合う中で、自然と湧き上がってくるもの、それが使命感。

そんな感覚を大切にしたいなと最近強く思うのです。

義務感と使命感は表裏一体。

そして、義務感と使命感というのは、以前書いた「愛と呪い」のように表裏一体なもののような気がします。

参照:人間、毎日続けられるのは、愛と呪いだけ。 | 隠居系男子

使命感だと思っていたものも、そこに執着しすぎてしまうあまりに、突如として義務感に変わってしまうことだってある。

青い鳥探しのように、外的要因に自分のやるべきことは何かと求めてみても、そうやってあがけばあがくほど見つからなくなるものが、使命感だったりします。

そうならないためにも、常にニュートラルであること。そして、ニュートラルで在り続けようとすること。

こうやって考えてくると、このブログでも何度か言及したことのある「シュッとしている人」というのは、自分の中に健全な使命感を常に持ち続けている人たちであるとも言えるのかもしれませんね。

参照:ファッションが好きな人に、いま僕が一番読んで欲しい記事。 | 隠居系男子

そんなことを考える今日このごろです。

それでは今日はこの辺で。

ではではー!

スポンサードリンク