「暮らし」が清廉潔白になる理由。

昨日読んだチェコ好きさんのVALUの投稿で「なぜ『暮らし』は、清廉潔白になるのか?」という話が、とってもおもしろかったです。

参照:チェコ好きさんのVALU

ホルダー限定投稿なのでここで詳しく書くことができないのですが、この問いがすごく興味深いなあと思ったので自分もしばらく考えてみました。

今日はこの問いについて、自分なりの仮説を少し書いておきたいと思います。

戦争に対して、カウンターとしての「暮らし」。

思うに、「暮らし」という言葉の文脈には、戦争に対してのカウンターとしての意味合いが強いのだと思います。

それはやっぱり、間違いなく雑誌「暮しの手帖」の影響です。

花森安治さんが自身の戦争体験をもとに「暮しの手帖」を創刊したこと、そしてこの雑誌が人気になっていく過程で、戦後の「暮らし(暮し)」文脈が形成されたことにある。

参照:「暮らし」というテーマに人生を賭けることの意味。 | 隠居系男子

たとえ『暮しの手帖』を知らない方でも、昨年大人気になった映画『この世界の片隅に』や、連続テレビ小説『とと姉ちゃん』を思い出してみてもらえると、その意味をよく理解してもらえると思います。

そして、現代において改めて「暮らし」が見つめ直されている理由もきっとそこにあるのだと思います。

現代であれば更に過剰労働(過労死)や精神的苦痛(ストレス)に対してのカウンターの意味合いも含まれてくるのでしょう。

だからこそ、「暮らし」という言葉はある種、清廉潔白にならざるを得ないのだろうなあと。

何かしらの“正しさ”が求められてしまうからです。

「暮らし」と「生活」の違い。

一方で、同じく日々の営みを指す場合であっても、「生活」という言葉にはそれがない。

「暮らしを大切にしましょう。」とは言うけれど「生活を大切にしましょう。」とか「生活を丁寧に。」とかはあまり言わないでしょう?

「生活」と言うのか、「暮らし」と言うのか、それだけで印象は180度変わってくるわけです。

群言堂・他郷阿部家で出会った18歳の女性。

これは「暮らし」と「生活」どちらの言葉選びが正解というわけではなく、ここはもう感性の問題なのかなと。

各人が好きな方を、状況に合わせて選べばいいと思います。

でも僕は、「暮らし」という言葉の中にある決して派手ではないけれど、静かに戦っている感じもまた好きで…。

そういえば先日、群言堂さんの阿部家を訪れた時に1人の女性に出会いました。

参照:他郷阿部家を訪れて。僕がつぎはぎ文化に惹かれる理由。 | 隠居系男子

彼女はまだ18歳で、高校卒業後すぐに阿部家で働くことを選択したそうです。

そんな彼女と話をしていると、何度も「世界平和」という単語がでてきました。

きっと彼女の中では、今の世界情勢や社会の動きに対して何かしら感じる部分があるのでしょう。やっぱりそういう10代の感覚って圧倒的に正しい。

参照:大学生の感度の高さは尋常じゃないんだから、もっとそれを発信したほうがいいよというお話。 | 隠居系男子

彼女がいま群言堂さんを訪れる理由、そして若い人たちの中でなぜか群言堂さんを気になってしまう人たちが増えている理由はそこにあるのかもしれません。

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【島根県石見銀山・群言堂】泊まれば、もうひとつの我が家になる。築227年の暮らす宿「他郷阿部家」 | 灯台もと暮らし

最後に

「暮らし」と「生活」あなたはどっち派ですか?

このブログをいつも読んでくださっている方であれば、少し自分の中で考えてみるとおもしろいかもしれません。

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