バイラルメディアに対する違和感の理由と、”親近感”というハイコンテクストの可能性。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

今はノンリニアなコンテンツが持て囃されている時代です。

ノンリニアとは、制作者ではなく、読者側に時間軸のコントロールが委ねられており、最初から見なくてもいいし、どこからどう見ても成り立つように断片化されてバラバラになっているコンテンツを指します。

「リニアとノンリニアの違い」については、メディアに関わる人以外も明確に意識しておいた方がいいと思うので以下の本は必読。

カンタンにまとめてあるこちらの記事も合わせてどうぞ。
参照:「ノンリニア」から考えたWebでウケる文章と読み手のわがままな姿勢 → 田端 信太郎著「MEDIA MAKERS」| らふらく^^ ~ブログで飯を食う~

今日はなぜバイラルメディアがこれだけ流行るのか、そしてなぜ僕らはソレに違和感を感じてしまうのかについて。そのうえで、“人”や“親近感”を通してハイコンテクストを共有する意義について少し書いてみようと思います。

バイラルメディアは、グローバルコンテンツでアメリカ的な発想。

本来はパッケージとして見てもらえるはずのテレビや雑誌でさえも、今は以下の記事のようにノンリニア的に消費されてしまう時代です。

参照:テレビを見ない人がいるなんてびっくり – Chikirinの日記

そんなノンリニアなコンテンツが持て囃される時代に一番適したカタチというのは、やはり「バイラルメディア」なのでしょう。

誰がどのタイミングで見ても、同じような感想を抱ける、同じように共感できるモノ、時に過激で刺激敵で感動的なものがドンドンシェアされていく。それがバイラルメディアです。

実はこれってものすごくアメリカ的な考え方だと思います。

どんな人種でも、どんな育ち方をしてきた人達でも楽しめるコンテンツ。ハリウッド映画やディズニー映画の世界観と同じで、そこに存在する文脈なんてものを意識する必要は全くありません。言い換えると、それは正しいグローバルコンテンツの形でもあると言えます。

誰もが人として持ち合わせている“感情”に訴えかければOKであって、ローコンテキストで共有できるものが全て。そこにあるのは、ものすごくフラットでオープンな世界です。

ハイコンテクストを共有して楽しむ日本人。

しかし、一部の日本人の間では、このようなバイラルメディアのコンテンツに対して違和感を持っている人がいるのも事実です。

それはきっと、僕ら日本人が感じる面白さというのは、アメリカ的なコンテンツの対局にあるからなのでしょう。

「薄いなぁ」とか「上っ面だけだなぁ」って感じてしまうのは、日本人はもともとハイコンテクストを共有して楽しむ国民だからです。

日本人は「結果」よりも「プロセス」を重視する国民とも言われます。それはつまりハイコンテキストを共有するという意味で、内輪的な盛り上がりを楽しんでいる国民だということ。

日本の伝統芸能などをみれば明らかですが、古くから日本では何かを楽しむためには必ず前提知識を求められてきました。

しかし、バイラルメディアのコンテンツにはそういった点は一切必要ありません。誰でもいつでも共感・共有できてしまう。それ以上でも以下でもない。だからこそ、日本人の間ではこれだけバイラルメディアに対して違和感を持つ人が多いのだと思います。

“人”や“親近感”というハイコンテクストがカギ。

さて、それではノンリニア全盛期の時代に、断片的に消化されずパッケージとして観てもらえるコンテンツというのはどういったものなのでしょう?

きっと、その答えの一つは“人”や“親近感”というハイコンテクストなんだと思います。いかにこの部分が共有されているかが重要になってくると。

参照:SNSが生む「親近感」は、驚異的なコンテンツ? コルク佐渡島さんの言葉から思うこと。 | ciotan blog(しおたんブログ)

今のアイドル文化なんてまさにその象徴だと思います。

「いま会いにいけるアイドル」と銘を打ち、以下の記事にも書いたように何度もファンと会わせることによって親近感を持たせ、ハイコンテクストを共有させる。

参照:高度情報化社会とは、情報が“少ない”時代。 | 隠居系男子

そうすることによって一般的な視点から見て「つまらない部分」も、「あなたの持ち合わせている前提知識と一緒に楽しんでよねっ!」と提案可能になります。

コンテンツとしてのクオリティが高いかどうかは別としても、そこに“人”や“親近感”というハイコンテクストが共有されていることによって、見ている側にパッケージとして楽しんでもらいやすくなるということです。

初見の人と全く同じ映像や景色を見ていたとしても、そのハイコンテクストを共有できている人にとっては、全く違うモノが見えているはずです。

だからこそ、他人からしてみれば「よくそんなパッケージ消費できるな!」と思うものであっても、当の本人は大満足だということです。

同じ理由から、ニコ生やツイキャスなどもそう。ノンリニア時代でコンテンツが断片的に消化されている時代においても、全部見てくれる人が存在するというのは、受け手側がハイコンテクストを共有していてその部分を補っているからです。

こんな記事を書いている自分も「スマートフォン王国」というラジオ番組をPodcastで第1回から全部聞いていますが、それは「モバイルプリンス」という人に親近感を抱いていて、ハイコンテクストを共有できているからなのでしょう。

参照:ラジオ番組『スマートフォン王国!!』が創り出す”コミュニティの場”、そして“にぎわい”。 | 隠居系男子

「地元」や「友人」もハイコンテクストの好例。

さて、更にもう少し卑近な例に落としこんでいくと、自分にとっての“地元”なんかもハイコンテクストを共有している一例だと思います。

自分の地元がテレビ番組で特集されていると、普段は絶対に見ないような番組でも、楽しみながら見てしまいますよね?

さらにそれが嬉しい内容だったりすると、ブログにも書いてしまったりして…。

参照:高城剛のメルマガと「モヤさま」が見つけてくれた函館の人の魅力 | 隠居系男子

他にも、自分の友人や知人が出ているテレビ番組なんかも全部見てしまいます。ここでいう、“人”や“親近感”というハイコンテクストを共有して楽しむというのは、まさにこうゆう感覚だと思います。

最後に

確かに今は、ノンリニアなコンテンツ全盛期の時代です。

断片的に消化されてしまうことを前提に、それに合わせたコンテンツをつくっていくべき時代なのかもしれません。

しかしそれは、ローコンテキストで共有できるものだけをひたすら量産していくという事です。その答えは「バイラルメディア」であり、「グローバルコンテンツ」だということになりかねない。

しかし「人」や「親近感」「リアルで生々しいもの」「ローカルコンテンツ」を取り上げて、ハイコンテクストを共有していけばパッケージとして消化してもらえる可能性は十分にある。

それは時として内輪ネタにもなりやすいかもしれませんが、内輪ネタのようなものをしっかりと共有することも、十分ひとつの戦略として成り立つのではなかろうかなと。

それはもはや「コンテンツを消費している」とは呼べなくて、「コミュニケーションを消費している」と呼んだほうが適切なのかも知れません。ただ、そうすることでノンリニアなコンテンツ全盛期において、パッケージとして消化してもらえる可能性はあるだろうなぁというお話でした。

皆さんの何かしらの参考にもなれば幸いです。

それでは今日はこのへんで。

ではではー。

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