鈴木大拙「禅と日本文化」を読んで。僕がブログで伝えたいこと。

禅と日本文化 (岩波新書)

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

先日、「代官山蔦屋書店「鈴木書店 鈴木敏夫を作った100冊」で僕が読むと決意した本5冊」という記事の中で紹介した『禅と日本文化』。

決して読みやすいとは言い難い本ですが、非常に学びの多い内容でした。

「禅とはなにか?“わび”とはなにか?そして日本人はなぜそれを求めるのか。」今日はそんなことについて書いてみようと思います。

わびについて

まずは、わびについて本書から引用してみましょう。

多様性のなかに超越的な孤絶性ーー日本の文化的用語辞典では“わび”と読んでいるものを我々は鑑賞するのである。わびの真意は「貧困」、すなわち消極的に言えば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。

貧しいということ、すなわち世間的な事物ーー富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値を持つものの存在を感じることーーこれがわびを本質的に組成するものである。

では、その「わび」は日本人にどのように受け入れられてきたのでしょうか。

「貧困」の信仰、おそらくは日本のような国には極めて相応しい道である。近代西欧の贅沢品や生活の慰安物が我が国を犯すようになっても、なお、わび道に対する我々の憧憬の念には根絶し難いものがある。

知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めないし、また、派手でもったいぶった思想の配列や哲学体型のたてかたもも求めない。

神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、そして環境全体と同化して、それで満足することのほうが、われわれ、少なくともわれわれのうちのある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なのである。

日本人なら誰もが経験したことのある感覚

「神秘的な自然の思索に心を安んじて静居するということが、心ゆくまで楽しい事柄である」というのは、皆さんも過去の経験から納得のいくところではないでしょうか。

僕自身も、昨年奈良の天川村を旅した時に似たような心境になりました。

参照:奈良県へ一人旅、そして天川村へ。 | 隠居系男子

地元の雪景色の中、一人で夜道を歩く時もこの感覚に没入する時があります。

参照:地元の雪を踏みしめて歩く時、静かな安心感に包まれる。 | 隠居系男子

先々週に京都へ行ったときに改めて感じたのは、京都の神社仏閣や日本庭園などは、このような禅の思想をわかりやすく説明した人工物であるということです。

禅の思想が表現された日本絵画と同じく、あれらも同様にこのような感覚をわかりやすく簡素化して表現した“人工物”であり、だからこそ多くの日本人の心をうち、訪れたくさせるのでしょう。

それこそがまさに「自然と同化する」ということなんだと思います。上手く言い表すことが出来ませんが、以下の記事にも書いたように日本の気候風土に根ざした建造物というのは、京都にあるような神社仏閣もそうなのだろうなと。

参照:「ガウディ×井上雄彦 -シンクロする創造の源泉」でガウディに全く心惹かれなかった理由と、心底行ってよかったと思う理由。 | 隠居系男子

最後に

禅は生活の表面に存する複雑さを好まぬ。生命そのものは甚だ単純なものであるが、これを知力で量れば、分析的な眼には比類なき錯綜物の姿となってうつる。科学を支配するあらゆる手段を使っても、いまなお、生命の神秘は計り知れないのである。

しかし、ひとたびその流れに身を任せれば、生命というものが、その外見は無限の複雑性と錯綜性を持つにもかかわらず、これを理解することができるように思える。おそらく東洋人の最も特異の気質は、生命を外からでなく、内から把握することであろう。禅は、まさに、それを掘り当てたのである。

僕がこの「隠居系男子」というブログを通して伝えていきたいことも、結局は「内から把握すること」の大切さです。

断捨離系のお話や、「余計なものを排除してシンプルに行動していこう」ということなど、いつも繰り返し繰り返し書いているのは、まさにこういった禅のような考え方や思考過程を自分なりに表現していきたいから。

9月23日に下北沢のB&Bで行われるトークイベントの中でも、この辺のお話をすることができたらいいなと思っています。

参照:ブロガー4人でトークイベント開催します!「ブログータン in 下北沢B&B ~ぼくたちがブログでは絶対書けない話~ 」 | 隠居系男子

それでは今日はこのへんで。

ではではー!

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