どうも鳥井です。
昨日、小説家志望の方と上野公園をお散歩しました。
参照:一緒に上野公園散歩をしてくれる方の募集を再開します。 | 隠居系男子
一緒にお話している中で思い出したことがあるので、今日は少しだけそれを書き残しておこうと思います。
「小説にするから、一番本当のことが書ける。」
以前、人から聞いた話なのですが、とある小説家さん曰く「小説(フィクション)にするから、一番本当のことが書ける」のだそうです。
ノンフィクションやエッセイのほうが本当のことが書けそうですが、実はそうではないと。
でも、言われてみれば確かにそうかもしれないですよね。
フィクションにするからこそ、本当の心の機微を恥じらいなく描くことができる。
それに、真実に基づいて書いてしまった場合、やはり角が立ってしまう。
その表現を通じて実現したいことが、角を立たせることであれば良いのですが、角を立たせることではなく、その人間ドラマの中に溢れる人間の性のようなものを描きたいのであれば、事実として書くほうが逆に蛇足となるわけです。
最近観た映画だと、朝井リョウさんの原作でつくられている『何者』なんかは、その最たる例な気がします。
また、少し前の作品になりますが、堀江貴文さんの『拝金』などもそうですよね。
史実は、語る人間によって異なるのが当たり前。
また、これは少し余談ですが、史実も誰が語るのかによって180度変わってくることがあります。
人の記憶とは、脳内でいくらでも自分にとって都合の良い記憶に書き換え可能で、時間が立てばそれが真実だったと自分でも錯覚してきます。
つまり、人が語る過去なんて、既に小説化されているみたいなもんなんです。
これに類似する話だと、宮﨑駿さんは、ヨーロッパで実際に見た建築物などを作品中で描く時、本来ではありえない構図で描くことがあるそうです。
だけど、宮﨑駿さんにとってみれば、それが自分の中で本物。実際、観客にとってもそのほうがリアルに見えるそうです。
今年大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』も、劇中のとあるシーンで太陽が2つ存在しないとありえない影ができている場面があるそう。
でも、観ている側からしてみると、指摘されない限り全く気づきませんよね。
だからこそ、小説というレトリックの中にも、きっとそういった効果があるのだと思います。
最後に
小説を普段から読んでいる(書いている)人にとっては、当たり前のことかもしれません。
しかし、僕のように普段はあまり小説を手に取らない人にとっては、意外と盲点だったお話ではなかったでしょうか。
皆さんの何かしらの参考になれば幸いです。
それでは今日はこのへんで。
ではではー!