「随筆」と「エッセイ」の違い。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

先日、松浦弥太郎さんの「日々の100」を読んでいたら、「随筆」と「エッセイ」の違いについて書かれていました。

これを読んで、目の前の霧が一気に晴れていく感覚がしたので、このブログでも少しご紹介してみようと思います。

「随筆とエッセイは同じものではなく、まったく別の文学だということ」

「エッセイ」と「随筆」の違いは何かと考えた時期があった。本屋に並んだ、エッセイと名の付く本と、随筆と名の付く本を読み比べてみたが、その分別の決まりはひとつもわからなかった。

エッセイとは、モンテーニュの『エセー』(一五八〇年)から生まれた言葉であるが、それを日本語にしたのが随筆というのは、あまりにも乱暴な解釈だ。わからないことは人に訊くのが一番と思い、恥を忍んで聞いてはみたが、誰ひとりわかる答えをくれた人はいなかった。

それから少し経って、岩本素白の文章を読んでいたら、暗雲立ちこめる空が一気に晴れ渡るような爽快気分を得ることができた。エッセイと随筆の違いを明確に示した文章があったからだ。岩本素白は、日本ではじめて随筆講座を開いた国文学者だ。文学の玄人は、岩本素白を明治以降の最高の古典的随筆家と口を揃える。

読んでわかったことは、随筆とは、本当にあった出来事の見聞や感想を自由に描いたもの。エッセイとは、出来事の描写ではなく、書き手のパーソナルな心の様子を描いたもの、告白的なものであるということだ。

随筆とエッセイは同じものではなく、まったく別の文学だということ、そして随筆の真髄が何かを、岩本素白から僕は学んだ。物書き職として道に迷ったとき、僕は今でも岩本素白の文章に立ち返る。

僕はエッセイが書けない。

いかがでしょうか。「長年の謎がとけた!」と感じる方も多かったのではないでしょうか。

これを読んだ時、僕が真っ先に思ったことは「随筆はどこか男性的、エッセイはどこか女性的だと感じていた理由もまさにこれだったのか」ということ。

僕が、平日毎日このブログで書いていることは、完全に「随筆」です。

そして僕はエッセイを書くのが極端に苦手。苦手というか、どう頑張っても書けないのです。

たぶん“告白”が得意じゃないのでしょう。

これだけ毎日ブログを書いていても、「鳥井さんは、何を考えているのかわからない。」と言われてしまうことがあって、それはエッセイが書けず、告白が苦手だからなのだろうなと。

エッセイが上手な人を尊敬する。

だから僕は、エッセイが上手な人を本当に尊敬します。

そして、「灯台もと暮らし」編集部の女性陣はみんなエッセイが上手なんです。(詳しくは彼女たちのnoteを読んでみてください。)

インターネットにおいて、エッセイはとても大切なコンテンツだと思っています。

極端な話、誰もがエッセイを書いて発信できるような環境になったこと、それがインターネットがもたらした最大の恩恵だと言っても過言ではないと思っています。

最後に

インターネットを使って何かを発信するときに、一つのグループ(事象)から、「随筆」と「エッセイ」の両方が発信されていると、僕は強いと思っています。

人によっては、ひとりで両方を上手く書きわけることができる人もいるでしょう。実際に上手く書き分けている人もネット上には存在します。

ただ、僕は「随筆」は書けても「エッセイ」は書けない。だからこそ、僕が彼女たちと一緒にチームを組んでにやっていきたいと思う理由なのかもしれません。

色々と腑に落ちることが多い気付きだったので、今回このブログでもご紹介してみました。

松浦さんがご紹介していた岩本素白という随筆家は、これを機会にちょっと読んでみようかなと思います。

それでは今日はこの辺で。

ではではー!

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