昨日、こんなツイートをしてみました。
今の服ってどうしても自由や負担の少ない方へと向かいがち。でも衣服のひとつの大切な要素って、それを身に纏うことで所作も変わることだと思っていて。そのためには、ある種の不自由さや制限も必要だと思うんですよね。着物ってどう考えても不自由だけど、不自由だからこそ生まれた所作もあるわけで。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年11月14日
「洋服や備品を揃えて形から入ること」ってどうしてもネガティブに捉えられがちだけど、形から入ることで、そこにある種の制限や不自由さが生まれて、所作が変わっていくということもある。良い意味で自らを型にはめるというか。その結果、在りたい姿に向かっていくということもあると思うんですよね。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年11月14日
じゃあなぜ今はより自由な方向へと向かうのか?と言えば、どう在りたいかを特に考えることなく「自由であることが善である」と盲信されているからなんじゃないのかなと。でも自由でありすぎることが、実は一番在りたい姿から遠回りなのかもしれない。そう考えると衣服に限らず、色々とおもしろいなと。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年11月14日
よくある保守的な考え方だなあと思われた方も多いかもしれません。
でも、こんな時代だからこそ、いま自発的に求める「制限」や「不自由さ」について真剣に考えてみたほうが良いと思うんですよね。
もちろん僕だって、古めかしい型をぶっ壊して自由になりたい気持ちはよくわかります。
これだけいろいろな型(旧体制)が形骸化していく中で、僕も同様の気分を感じ取っているし、実際に日々何かと壊したい衝動にも駆られています。
自由になった先にどうなりたいの?
でも、その先の在りたい姿が明確でないまま自由を獲得しようとしたところで、目的地がないまま草原に放り出されるようなものだと思うんですよね。
確かに、自由になればなんでも好き勝手にできるかもしれない。
かと言って、自由になった先にどうなりたいのか?という未来が描けていなければ、それさえも不幸になる気がしていて。
まず在りたい姿を明確にすることが大事。
だからこそ僕は、まず在りたい姿を明確にすることが大事だと思っていて。
そこに近づくための道筋を、先人たちの叡智にも照らし合わせながら、自分なりに必死で考えてみる。
その上で何かしらの「制限」や「不自由さ」が存在したほうが良ければ、それは自ら率先して選び取っていくべきなんだろうなあと。
それはちょうど、ルールがあるからこそ、おもしろくなるスポーツのような感覚にも近いのかもしれません。
そして、その基準は自分の中に存在する倫理観のようなものかもしれないし、自分の中にある美意識のようなものなのかもしれない。
最後に
最後はかなり抽象的な話に着地してしまいましたが、そんなことを考えている今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にも何かしらの参考になったら幸いです。