【寄稿】30歳を迎えた時、僕は隠居をしたのかもしれない。

どうも、黒宮丈治(@georgek5555)です。

普段はWEBを中心にライター業務を行いつつ、色々な方とお喋りをして生活をしております。

三十代も半ばを超え、のらりくらりと生きている僕が鳥井さんのブログに寄稿させて頂いてよいのか解らないのですが、こうして寄稿させていただける機会を頂いたので、僕なりに生きてきた足跡の一部を「新しい生き方や理想的なライフスタイルデザインを提案していく」という当ブログに寄せさせていただこうと思います。

僕の人生は30を迎えるときに隠居を迎えた

鳥井さんの「隠居」が、何を指すのか、僕の中で未だきちんと整理できていません。それなのにも関わらず、それを使うのもいかがなものかと思いましたが、僕は30という年齢を迎えた歳にひとつの隠居を迎えたのではないかと思います。

20代までの僕は、野望に満ち溢れた青年でした。言うならば「夢見がちなドリーマー」といったところでしょうか。10代の頃はプロミュージシャンを目指し、20代の頃は起業家や芸術家といったあたりで、いつか世界を変えるんだという野望という名の無謀を抱え生きていました。

そんな僕が30を迎える年のこと。

大きな夢をいくつも抱きながら地元である福岡県・北九州市に友人の1人が作った小さなライブハウスで店長をしていました。いつか音楽で世界を変えたいと思いながらも、気づけば生活することに必死で長らく住んでいた彼女に迷惑をかけながらも、必死に働きまくっていた20代を過ごしました。色々あって、その彼女と別れたあと、自分はまた小さな夢をいくつか膨らませながらアルバイトと、グラフィックデザイナーとして半フリーランスの掛け持ちをして生きていました。

音楽からはすっかりと遠ざかっていた自分に、友人の1人がライブハウスを作るから少し手伝って欲しいといわれ、デザイナーとして店のロゴなどを制作して納品したのですが、ひょんなことからそこで店長として働くことに。そこで久しぶりに音楽の世界に戻ることになりました。

この時、僕はすでに”音楽で世界を変える”という野望を持った実行する側からは足を洗っていました。しかし今度は、”音楽で世界を変えたい”と考える次世代の若者に多く出会いました。ここで自分が思ったことは「例えば自分が世界を変えることが出来なくても、世界を変える人の手伝いは出来るのではないか?」ということ。

ある意味プチリタイアに近い感覚を持っていたのですが、今考えると大きな勘違いをしていることがありました。

「自分のようになってはいけない」は大きなお世話

この頃の僕の口癖は「自分のようにはなってはいけない」というもの。

夢を抱きながらも、日々の生活に追われ、結果なんにも出来ないまま年齢だけ大人になってしまった、そんなどうしようもない人間だと自分を卑下して生きていたのが僕でした。

まだ可能性を大きく秘めている次世代の若者が、僕のような「口だけ」人間になってはいけないとそう思い、彼らにはことあるごとに「自分のようにはなってはいけない」と言っていたのです。しかし、それは大きなお世話でした。

そもそも、人間は誰1人として同じ人生を生きることはありえません。望もうが、望まなかろうが、人は誰も歩いたことのない道をそれぞれ進みます。

「自分のようになってはいけない」は、アドバイスのようにも聞こえますが、成功者ではなく失敗者の意見には耳を傾けづらいものです。もちろん、失敗者の意見というのはひとつの参考にはなります。しかし、それを失敗している当人から聞かされたところで「自分に酔っているな」としか思えない発言でしょう。実際「酔っていた」部分もあると思います。

「どうして若い子たちは同じ過ちを繰り返そうとするのか?」と、そんなことばかり考えていたのがこの頃の僕でした。

そして僕は東京へ旅立つ

そんな僕が、日々の様々な葛藤を繰り返しつつ生活をしている中で、大きな岐路に立つことになります。

今や音楽ビジネスは以前よりも厳しい状況にあります。それは地方のライブハウスも当然であり、友人の誘いで勤めることになったそのお店においても、経営において危機を迎えます。詳細は控えますが、そこで自分は店長の座を退き、ライブハウスを去る選択肢を選んだのです。

そこから約1ヶ月、僕は久方ぶりに仕事もせずにダラダラとした毎日を過ごしました。

結婚しようかと思っていた彼女とも別れ、仕事も辞め、何か抱えている案件はひとつもなく、今まさに自分は何をするにも自由な状況にいたのです。

そこで考えたのが「東京へ行こう」というもの。

幼き頃から大きな野望を抱えていた自分は、その頃なにかをするには東京へ行くしかないと思っていました。しかし、それが10代の終わりの頃に出会ったインターネットで「自分がいる場所が世界の中心になる」というものに変わり、地方にいながらにしても野望を遂げることが出来るというものに変わっていました。

そして、地方に長年居続けた自分は、また自由選択が出来る状況になって「上京」という言葉が頭のなかを駆け巡ったのです。

東京へ行く理由はいくつもありました。

若い子達に「成功したいなら早く東京へ行け」と言っていたことや「人生は何歳からでもやり直せる。やりたいと思った時がやりどきだ」など…いくつもあったのですが、今考えると僕はすでに「黒宮丈治」という人生をここで一度隠居しようと考えたのかもしれません。

着飾ることもなく、そのままの自分に出会う

東京に来てから6年半ほど経過しました。今の僕はなにかあの時の自分と大きく変わったのかと聞かれれば、実はなんにも変わっていないと思います。

地元に30年居たころの自分は、美味しいお店がある場所も、馬鹿なことを言い合える友人も、すぐそばで還暦を迎えてもなお働き続ける両親も、仕事における人脈も何もかもがそこにありました。

ところが東京に来て、そのどれもが全て0からのスタートでした。最初は歌舞伎町にあるキャバクラで働き、日銭を稼いでは、会社の寮でお店の賄いの余りなどを頼りに生命を繋ぐ。

「東京にいけば人生は変わるかもしれない…」なんて実は全く考えていなかったと思います。僕は東京に逃げてきたのです。

逃げるなら地方都市の方がよいのかもしれない。しかし、僕は地方の濃い人間のつきあいかたに疲れていたのもあり、可能な限り人付き合いをしなくて良さそうな首都を選らんだのです。

では、結果はどうだったのか?

確かに環境は大きく変わったのではないかと思います。しかし、僕自身は何も変わっていません。相変わらずの人付き合いの下手さ、ついつい攻撃的になってしまう性格、豊富な皮下脂肪…何も変わっていません。

しかし、ひとつだけ変わったことがありました。それは、そんな自分に抗うことなく受け入れるようになってきたということです。

ほんとうに最近までは、自分自身の理想に向けて自分と闘っている自分がいました。けれど、前述したように「僕は僕でしかない」のです。そんな自分とうまく付き合っていくことが、もしかしたら今後の自分の人生で良質な酸素を取り入れることになるのではないかと思うようになりました。

そのひとつが、この寄稿です。

自分が編集長であり、自分が書き手である自分のブログでは、時に着飾ってしまいます。それは、着飾ってカッコつけるのが僕だからです。しかし、こうして他の方のブログに寄せさせてもらうと、思いの外むき出しな自分を出せることに気づいたのです。

自分が描く5%もかっこ良くない自分。自分が望む3%にも満たない結果。自分ではどうしようもない世界のあれこれ。

そんな駄目な自分を受け入れたことが、もしかしたら僕にとってひとつの隠居であり、そして新たな人生のスタートなのかなと今思っています。

こんなむき出しな自分の文章をまた読みたいなんて声がもしあれば、また寄せさせていただきたいと思います。

それでは今日はこのへんで!

ではではー!

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