ものさえ、ものとして扱わない。

先日、映画『主戦場』を観ている中で、「奴隷」の定義を知りました。

奴隷と言えば、鎖で足を繋がれて馬車馬のように働かせられる、そんな姿を想像してしまいがちですが、現代の奴隷の定義はそうではなく、

「奴隷とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人のことである」と。

参照元:奴隷 – Wikipedia

そこで、思ったんです。

なるほど、人間を所有物のように扱うことが、個人の尊厳を逸脱してしまう行為なわけだから、そもそも、ものさえものとして扱わないほうがいいのではないかなと。

今日は一風変わったそんなお話です。

自分の中から「所有」という概念を消し去る。

人であれ、ものであれ、なにひとつとして所有しない。

「所有」という概念を、自分の中から消し去ったほうがいいのだろうなあと。

社会的に認められている自分の所有物でさえ、自分は「所有権」を有しているだけであって、それはあくまで権利であり、その権利を行使しない。

すべての物質は借り物だと捉えるようにする。

そうすると、他者とのコミュニケーションの取り方も、ずいぶん変化してくるのではないのかなと思うのです。

ものと人に対する群言堂さんの姿勢。

こんなときに、いつも思い出してしまうのが、群言堂さん。

参照:今、私は何を継げるか?【島根県石見銀山・群言堂】特集、はじめます。 | 灯台もと暮らし

群言堂さんについて色々と調べていくと、ものも人も扱い方がほぼ同じだということに気がつくんですよね。

それはもちろん良い意味で、です。

とにかく、ものを尊重する。

具体的には、ものを一切無駄にせず、そのものがものとして全力で輝けるような場所に配置する。

群言堂さんで雇用されている方々も同様で、そのひとがそのひとらしく一番輝けるような場所に配属される。

しかも、外から最適なもの(者)を調達してくるエンジニアリング的な手法ではなく、その場に自然と集ってきたもの(者)によって、ブリコラージュ的な手法で構成される。

詳しくは、以前こちらの記事に書いたことがあるので、ぜひ合わせて読んでみてください。

参照:他郷阿部家を訪れて。僕がつぎはぎ文化に惹かれる理由。 | 隠居系男子

ものの扱い方と、人とのコミュニケーションのとり方はリンクしている。

つまり、ニワトリと卵のような関係性で、どちらが先かはわからないですが、ものに対しての扱い方と、他者とのコミュニケーションのとり方って、非常にリンクしているような気がするんですよね。

ミニマリストと呼ばれるような方々の場合は、交友関係もなるべく広げず、最小限に抑えてひとりの人と深く付き合っている気がしますし、整理整頓が好きなひとたちは「会社の同僚、地元の友人、東京の友人」など上手に分けて、サバサバ交流しているイメージがある。

フランスの美食家・ブリア・サヴァランの名言に「君が何を食べるか言ってみたまえ。君が何者であるかを言い当てよう。」という言葉がありますが、

それと同じように「君がどのようにものを扱っているのか言ってみたまえ。君が何者であるかを言い当てよう。」とも言えるのかなと。

最後に

「ものさえ、ものとして扱わない。」とても極端な考え方だということは百も承知です。

でもそうやって普段から心がけていくことで、そのスタンスが自分の中に染み付いてきて、他者とのコミュニケーションにおいても自然と発露していくのかもしれないなあと思います。

そして、なによりシンプルでわかりやすい。

この世界で何か自分意外の存在と対峙するときに、人の場合と物の場合で態度を変える必要がなくなるんですから。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。

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