昨日、こんなツイートをしてみました。
色々なことに手を出す、いわゆるパラレルキャリアのような状態って、一つのことに集中していないって批判されがちだけど、実はその逆なんですよね。同時並行的に進行するからこそ、それぞれの業務に対して飽きることなく、瞬間ごとに集中できる。その結果、いつも楽しそうだからお客さんも増えていく。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年6月26日
「飽き」はすぐに伝わってしまう。
自分が自分に飽きてしまうこと、それが一番怖いことだと思っています。
しかも、その「飽き」はダイレクトに受け手に伝わってしまう。
なぜなら、今の時代、仕事という枠を飛び越えて熱量の高い「上手い素人」が増えてきたから、業務のようにこなしてしまっている様子は逆に目立つようになってしまいました。
参照:「上手い素人」と「ヘタなプロ」の違い。 | 隠居系男子
何度だって行き来してみる。自分が納得できるまで。
思うに、技能や能力の向上は「かける時間」であり、思想や哲学の深まりは「矛盾の回数」のような気がしていて。
きっとこれからは、個人の活動でも「レーベル」を使い分け始めるひとが徐々に増えてくると思う。実際、はやい人は既にSNSごとで分け始めていたりするし、関わる仕事の案件ごとでも分け始めている。でもそんな肩書きだけでは追いつかなくなって、「個人」で「レーベル」を分け始める気がするんだよな。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年6月25日
技能や能力の向上だけではなく、思想や哲学の拡張(拡大)を求めるようになると、自分の中に存在する自己矛盾や、朝令暮改したくなる感覚に目を向けざるを得ない。一つの論理では説明できない気持ちが芽生え始めて、レーベルの往来こそがそれらを醸成するためには必要不可欠なことだと思うようになる。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年6月25日
どれだけ考えても考えても、考え抜いても、「絶対にこれが正しい」なんて答えは見つかりません。
じゃあ、絶対的な正しさが見つからないことに対して絶望して、思考自体をあきらめてしまってもいいのか?
否、そんなことはないはずです。
だったら、何度だって行き来してみる。自分が納得できるまで。
以前、「正義なんてものは存在しない。連綿とした正義の否定の繰り返しこそが、正義である」という考え方をこのブログで紹介したことがあります。
それと同じように、この”行ったり来たり”こそが、思想や哲学するということなのかもしれないなあと。
参照:良質な情報、良質なメディアとはなにか? | 隠居系男子
最後に
パラレルキャリアで同時並行的に業務を遂行する。
それぞれ、その瞬間ごとに集中する。今を全力で楽しむ。
そこで矛盾にぶつかる、また考える。
その行ったり来たりが、自分の成長につながることなのかもしれないなと今の自分は思っています。
非常に抽象的な話になってしまいましたが、いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの参考になったら幸いです。