じんわりと湧き上がってくるような日本人としての誇り。

昨日、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんがキュレーターを担当している「Fermentation Tourism Nippon 〜発酵から再発見する日本の旅〜」展に行ってきました。

今日はこの展覧会に行ってみて、自分が感じたことを少しだけ書いてみようかなと思います。

観れば観るほど、ドンドン落ち着いた気持ちになってくる。

一番最初に驚いたことは、展覧会の奥に進めば進むほど、ドンドン落ち着いた気持ちになってくること。

「日本の文化はすごい…!日本最高!」というタイプの感動や高揚感ではなく、もっとじんわりと湧き上がってくるような「日本人の誇り」みたいなものが感じられたのです。

その理由はきっと、こういった展覧会にありがちな「おいしい!」とか「デザインがカッコいい!」とか、何かわかりやすい感性を刺激してくるタイプのものではなかったからなのでしょう。

展覧会では、日本の発酵食品が都道府県ごとに47個紹介されているのですが、それらは決して恣意的に切り取られた印象も受けないですし、過度に編集された感じも受けません。

あくまでも「発酵」という視点から、日本にもともと存在するものを淡々と紹介してくれているだけ。

そして、そのものに紐付いて連綿と続いてきた歴史やその背景にある原風景について教えてくれているだけです。

でもだからこそ、じんわりと湧き上がってくる「日本人の誇り」のようなものを感じられたのだろうなあと思います。

司馬遼太郎が考える「ナショナリズム」と「パトリオティズム」の違い。

そういえば先日、NHKの『100分で名著』の「司馬遼太郎スペシャル」を観ました。

その中で語られていた「ナショナリズム」と「パトリオティズム」の話を、ふと思い出したのです。

きっとこの展覧会には、自分の中にある「パトリオティズム」を刺激してくれるものがあったんだろうなあと。

少し長いのですが、「NHKテキスト」のサイトから一部引用してみます。

ナショナリズムとパトリオティズム
 

ナショナリズムという言葉は、一般には国家主義と訳されるものですが、司馬さんは、お国自慢や村自慢、お家自慢、自分自慢につながるもので、あまり上等な感情ではないと思っていたようです。一方で、ナショナリズムと混同されやすい概念にパトリオティズム(愛国主義)がありますが、司馬さんは、愛国心と愛国者というものは、もっと高い次元のものだと考えていました。

 

ナショナリズムとパトリオティズムの違いについては、お家自慢のたとえで考えてみるとよくわかります。たとえば、ある地域社会で、自分はよい家に生まれたのだといって誇りに思っている人がいます。その人が家柄を自慢し、ほかの家を馬鹿にする。何ら自分の努力で手に入れたわけではなく、ただその家に生まれただけなのに他人を見下していると、自分は金持ちなのだから、貧乏人を従えて当然だという考えに陥っていきます。自分がかわいいという感情が、自分の家がかわいいと変形したにすぎず、その「自分の家がかわいい」を「自分の国がかわいい」と国家レベルまで拡大したものがナショナリズムだというわけです。

 

対して、「いや、自分はたまたま名家に生まれついたのだから、一層きっちりとして、さらに周りから尊敬される良い家にしよう」と考える人もいます。これは言わば「愛家心」ですが、この感情を国家レベルでおこなうのが、司馬さんのいう「愛国心」に近いと思います。自分の家をよくするだけではなく、周りの人たちのお世話までできる家にする─その高い次元の、真の愛国心を持った人が支配層にいる間はまだしも、持ちにくくなってきたときに国は誤りをおかします。そんな姿を司馬さんは活写しています。国の単位だとわかりにくいのですが、家の単位に転換して考えてみると、このあたりの問題はよくわかるのではないでしょうか。

 

引用元:ナショナリズムの暴走が生んだ「鬼胎の時代」 | NHKテキストビュー

最後に

さて、こんな展覧会、なかなか観ることができないと思います。

自分たちも地域の取材をしているからこそ、感じる凄みがありました。

ヒラクさん以外に、絶対に再現できないものがそこに広がっています。

ぜひ、いつもこのブログを読んでくださっている方々も足を運んでみてください。

会期は、2019年7月8日(月)までです。

詳細はこちらから。
8/04/d47 MUSEUM/D&DEPARTMENT PROJECT/Fermentation Tourism Nippon 〜発酵から再発見する日本の旅〜

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