「日本人はもっと多様性を受け入れるべきだ!」という主張にいつも感じてしまうたった一つの疑問。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

先日、こんなつぶやきがタイムラインに流れてきました。

この乙武さんや宋文洲さんの主張に限らず、「日本はもっと多様性を受け入れるべきだ!」という主張は近年至るところでみられます。

でもそれって本当に正しいのでしょうか?いつも疑問に感じてしまうので、今回はそれについて少し書いてみようと思います。

日本の唯一無二の文化と、多様性は両立するのか?

僕は、「日本の文化」や「日本らしさ」というのは、日本人がいい意味でも悪い意味でも「多様性」を受け入れず、異文化をまっすぐに受け入れなかったからこそ、生まれたものではないかと思っています。

海外から異文化が入ってきても、そのまま受け入れることはせず、日本人らしい消費の仕方に変えていったところに、その本質があるのではないかと。

江戸時代の鎖国していた時期に、日本の文化が花開き「町人文化」として一番成熟したこともそれを象徴している様に感じます。

だからこそ、僕は常々疑問に思ってしまうんです。

「日本の唯一無二の文化は、Cool Japanとして世界に広げていくべきだ!」といいつつ、「その文化を育んできた環境は、今すぐ手放せ!」という主張に。

果たして本当に、多様性というものを受け入れるべきなのでしょうか。日本人は皆、英語を喋れる様になって外国人をおもてなしできるようになるべきなのでしょうか。

「グローバル・多様性・異文化を受け入れる」という言葉が、絶対的正義のように使われていますが、実はそこって結構トレードオフの関係だと思うんです。

もし、そんな国を目指したら、それこそ韓国や中国、シンガポールのようになってしまい、自国の文化ではなく、グローバル標準でウケるようなものばかりを作るようになってしまうのではないかと。

参照:クールジャパンを吹聴する日本人がコンテンツの「カッコいい魅せ方表現」をできなくなっている問題について – ボン兄タイムス

結局、独自の文化というのは、物理的にグローバル展開できなかった時代の「過去の遺産」ばかりになってしまう気がします。

コミュ力のある、意識高い系の国。

この話、擬人化すればもう少しわかりやすくなるかもしれません。

たとえば、オタクの子に対して、「お前のオタ活動はスゴく面白いから、皆に発信していけ!」といいつつ、「でも、他人に干渉されず家にこもって毎日何時間もパソコンの前に座り続けているのは、今すぐやめろ!」と言って、オタ活動の原点を否定しているのと同じです。

人を教育する現場では、この主張が間違っていたと修正されつつあるのに、一国のあり方の議論をする時にはそれがないがしろにされて、「社交的でコミュ力のある、意識高い系の国」になれみたいな主張がなされてしまっていないでしょうか。

日本人は、内に篭もれば篭もるほど面白いものを創り出す。

日本人は、内に篭もれば篭もるほど面白いものを創り出します。それこそ、世界中の人々が想像もしなかったようなモノを作り出してしまう。そこは間違いありません。

また、「世界だ!グローバルだ!」って活躍してきた人ほど、ある程度世界を一周りし終えると、「日本の、地方の、片田舎の、伝統工芸の、一度も海外に出たことのない、頑固な職人」とかに触発されて、そのエッセンスを取り入れたものを世界に発信しようとし始めます。

わかりやすいところで言えば、中田英寿さんの「Revalue Nippon 日本の文化をめぐる旅。」とかがまさにそうですよね。

最後に

もちろん今回書いてきた内容が、極論であるということも重々承知しています。

しかし、日本が世界に類を見ない独自の進化を遂げ続けていくことと、多様性を受け入れていくことが、あたかも両立できるものとして語られている事に非常に疑問を覚えてしまいます。

このへんの議論が、もっと活発化なされていくことを願ってやみません。

皆さんはこれについて、どう考えますか。ぜひ自分自身で考えてみてください。

それでは今日はこのへんで。

ではではー!

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