どうも鳥井(@hirofumi21)です。
発達した低気圧の通過や強い寒気の南下で、北海道を中心に雪が降り続く荒れた天気になっていますね。
僕は、ギリギリ吹雪く前に地元である北海道・函館の方に帰って来られたので、交通の混乱はなんとか避ける事が出来ました。
ただ、この年末の帰省時期に、飛行機が羽田に戻る可能性があるという条件付きで飛ぶ時のことを思い出すと、なんとも言えない気分になってしまいます。
早く帰りたいと焦る気持ち、早く帰ってきて欲しいと願う家族の気持ち、それが東日本の至る所で溢れているのかと思うと、一刻も早く皆が自分の実家に帰れることを願ってしまいます。
さて、そんな雪模様の中、今回は題名にもあるように、雪を踏みしめて歩く時の“あの音”に関して少し書いてみようと思います。
これだけ雪が降り続く中、雪道を歩いてみて、なんとなく分かったような気がします。自分の中に宿していたものが…。
井上雄彦『承』に書かれていた玉砂利の音
以前、井上雄彦さんの『承』という本を紹介する際に、こんな一節を引用しました。
伊勢神宮の玉砂利を踏みしめて歩くとき、
太古から日本人が共有してきたものを
自分も宿していると知る。言葉でなく
心のありようでそうと知る。未知のことを知るようにではなく、
ずっとあったけど
忘れていたことを思い出すように。そのささやかに湧き上がる感じによって
静かな安心感に包まれる。すぐあと、わくわくするような
笑いたくなるような気持ちが
奥からこみ上げて
ありがたさに自然と手を合わせたくなる。日本のことを知らなすぎた自分であっても、
希望の光が灯るのです。
今回地元に帰省してみて、降り続く雪の中を歩いてみると、これに非常に近い感覚が自分の中に蘇ってきました。
雪国で生まれ育った人にとっての、雪を踏みしめて歩く時の音
雪が降り続く中歩いていると、その静けさにとても驚かされる時があります。
聞くところによると、雪の結晶が音を吸収してしまうらしく、周りの80%以上の音を吸収するという説も。
特に日が落ちた後の暗闇の中で、田舎の雪道を一人で歩いていると、その情報量の少なさが尋常じゃないんです。これは雪の降らない都会では絶対に体験できないような感覚です。
とても不安に感じ、孤独に感じることもあるのですが、その後とてつもない安心感に包まれる。そんな感覚。
函館の場合は北海道の中でも南に位置するので、気温がそれほど低くありません。なので、粉のような雪ではなく大粒の雪が多いんですよね。
それが降り積もると下のほうが少し凍っていて、映画の雪国の場面であるような「ミシっ」という音ではなく、「ジャリ」っていう音に近いんです。
その音を耳で感じ、足の裏で感じていると、どこの雪でもない、きっと自分が生まれる前からずっとこの地に降り続けているこの雪が、自分の中に宿っていたものを沸き上がらせてくれるんだと、そう思わされてしまいます。
最後に
まだ10代の頃、自分が北国の田舎に育ったことをコンプレックスに感じる時もありました。
関西や九州の様に、歴史や伝統のある中で生まれ育った人たちを見ていると、それが羨ましく感じる時もありました。
でもこうやって自分の中にあるものを一つ一つ発見していくと、これはもう切っても切り離せないものだし、それが自分にとって実はとてつもなく大切なモノだったということも思い知らされます。
そこで本当の意味で、自分が北国の人間であったことを知るわけです。
僕の場合はこの函館の氷混じりの雪を踏みしめて歩く時の音でしたが、きっと皆さんにも自分が生まれ育った土地のそんな「何か」があると思います。
年末年始は地元に帰る良い機会ですから、自分にとってはそれが何なのか、探してみるというのもいいかもしれません。
“原体験”を大切に。
それでは今日はこのへんで!
ではではー!
鳥井弘文