今なぜ最初からパートナーが決まっている物語が持て囃されているのか?

どうも鳥井です。

昨年ずっとブログに書きたいと思っていて、結局書けなかったことがありまして。

昨年どうしてあんなにも「逃げ恥」や「この世界の片隅に」、そして「君の名は。」が流行ったんだろうなあということです。

どの作品も、最初からパートナーが決まっている。

どの作品も、最初から自分のパートナーとなるべき相手が決まっている話じゃないですか。

もしも、この作品たちが5〜10年前に公開されていたら、「自由恋愛を否定するな!」と炎上していたかもしれません。

しかし今の時代、多くの人々にこれらの作品が受け入れられた。それがとっても不思議だったのです。

「自由には責任も伴うから。」

じゃあなぜこれだけ持て囃されたのか?

そんな話を、先日行われた佐々木俊尚さんとの対談イベントの中でもさせてもらったら、佐々木さんからものすごく的確なお言葉をいただきました。

それは自由には責任も伴うからだ、と。

確かにいま僕らは、溢れる情報の中からどんな情報でも自由に吸収していいよ、という状況に置かれています。

でも、それが結局自分たちの首を締めてしまっているわけです、情報も人も。(明日からドラマ化される「タラレバ娘」はそれを逆説的に描いていて、前述の作品と表裏の関係なのかなと。)

だったら、最初から既に決まっているか、自分の責任が発生しないところで偶発的に決まっていて欲しいと心のどこかで願っているのかもしれません。

そして、その決まったモノや人とどうやって関係性をつくっていくのか、そのプロセスの方が尊いと無意識に思っているのではないでしょうか。選ぶまでの過程よりも、です。

住む場所(地域)も同じこと。

さて、ここから無理やり自分の土俵に持っていきますが、日々の「暮らし」の選択なんかもまさにそう。

特に住む場所(地域)というのは、その代表例です。

LCCなど交通網が発達して、SNSで人間関係の繋がりも継続し続けることができて、いよいよ「さあ、もうどこに住んでもいいですよ!」という社会的な状況になってきています。

そんな中、決断が早い人は、ドンドン移住したり多拠点居住を始めています。

でも、慎重に判断する人は、いろいろな情報を見比べてしまって、もう判断がつかない状態になってしまっているわけですよ。

まさに、上述した自由恋愛と同じ状況に陥っているといえるでしょう。

半分諦め混じりで受け入れながら、愛していく過程にやりがいを感じる。

じゃあ実際に移住や多拠点居住を始めた人々が、詳細な情報を集めて比較検討した上で決めたかと言えば、そうじゃない。

それよりも、「◯◯さんの話に心底惹かれ、説得されてしまって〜」とか、「ふらっと訪れたらなんだか居心地がよくて〜」とか、「そもそも親のあとを継ぐために〜」とか、そういった受け身の理由を話をしてくれる人のほうが圧倒的に多いわけです。

逆に、色々な地域を見てまわって、その上でこの地域が一番◯◯という条件が良かったから!と主張する人は、なんだか辛そうに見えることさえあります。

きっと僕らの中には、自分の責任が発生しない範囲で偶発的に選んでしまいたいという欲求がどこかに存在するのでしょう。

そして、ある種そうやって偶発的に選ばれ(てしまっ)たものを、半分諦め混じりで受け入れながら、愛していく過程に、いとおしさだったり、やりがいなんかを感じるのではないでしょうか。

結果よりもプロセスを重んじる、なんとも日本人らしい発想ですよね。

世の中に溢れる情報の中から自分に必要なものだけをうまく取捨選択して、その中から最良の決断をすることが世間的に良しとされていますが、実際はそうではないのだということです。

最後に

僕らが運営する「灯台もと暮らし」で、これからの暮らしを考える「きかっけ」を与えていきたいということは、公開当初から一貫して言い続けていることです。

そして、この「きっかけ」というのが、まさに今日書いた「偶発性を促すモノ・ヒト・コトとの出会い」ということなのかもしれません。

そして、このモノ・コト・ヒトというのは、人それぞれ明確に好みが分かれるところでもあると思います。

だからこそ、「いいな!」と思えるものが近い共同体の価値観を「文化」と呼び、そこに集まっている人たちを「文化をともにする人々」と言うのかもしれませんね。

作り手である僕らが好きな「きっかけ」を集めることで、きっと読者の方々にも響く「きっかけ」が並ぶメディアとなるはずです。

これからも自分たちが良いと思える「きっかけ」をたくさん集めていきたいと思っています。

それでは今日はこの辺で。

ではではー!

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