どうも鳥井(@hirofumi21)です。
昨日の「今日のダーリン」で この先「小分けの時代」の次に来そうなのは、「おにぎりにする時代」だと書かれていました。
しかし、その「おにぎりにする時代」の意味するところは書かれてません。
Twitterを見ると、cakesの加藤貞顕さんや、バトンズの古賀史健さんも考えている様子。
近々答え合わせがなされるとは思うのですが、答えが出てしまう前に、「おにぎりにする時代」の意味するところについて、僕も自分なり考えてみようと思います。
僕なりの「おにぎりにする時代」の解釈。
まずは、ゴハンとおかずを一緒に食べようよ。小分けでバラバラに食べるより一緒に食べたほうが美味しいし、そのほうが健康にもいいってことはみんな気がついてきたはず。
でも、座ってゆっくりと定食を食べている余裕はないよね。あくまで片手で食べられるっていう利便性はやっぱり依然として必要な時代だもんね。「席について食べている余裕はない」だからこそ、ゴハンとおかずが一緒に食べられるおにぎりにする時代なんだと思う。
おにぎりっていう素朴な料理は、そもそも見た目はそこまで変わらない。ゴハンが具材と一緒に握られているっていう、フォーマットはいつも同じ。
じゃあそんな中でどうやって他のおにぎりと差別化を図っていくのか、それはもう素材にこだわるしかないよね。米、塩、のり、鮭などの具材…など、最高の食材を使って、徹底的にこだわって作ったおにぎりは、やっぱり最高に美味しいもんね。
でもさ、それ以前にもっと重要な問題があって、おにぎりって最終的には結局「誰が握ったか」が一番重要だと思うんだ。
どれだけ、素朴な食材を使っていたとしても、握った人の愛情がこもっていれば、それはとっても美味しいおにぎりになるし、逆に、愛情がこもってないおにぎりはどれだけ高級食材が使われていたとしてもちょっと味気ない…。
あと、たとえどれだけ愛情がこもっていたとしても、やっぱり赤の他人が握ったおにぎりはちょっと食べられないよね。食べられないというか、やっぱりどこか気持ち悪い…。
だからおにぎりにおいて、誰が握ったのかっていうのは、とてつもなく重要な要素。結局は作り手の想いと、それを食べる人との関係性の問題なのかなぁ。
もちろん一方で、コンビニのおにぎりのように、機械的に作られた、胃袋を満たすためだけのおにぎりも依然として必要だし、あれは万人にウケる味だから、今後もずっとなくならないだろうね。人間に食欲が存在するかぎりは…
最後に
以上が、僕が考える「おにぎりにする時代」の意味合いです。各項目が具体的に何を指しているのかっていうのは、あえて書きませんでした。
でも、このブログを毎回読んでくれている人には、何を指しているのかある程度はわかってもらえたと思います。
完全に糸井重里さんの手のひらの上で転がされているなーと思いつつ、こういうお題を与えられて、それについて考えあぐねてみるっていうのもたまには良いものですね。
最初はお題の答えを考えていたはずなのに、途中からは自分がこれからはこういう時代になって欲しい、っていう願望のほうがドンドン強くなってきて、個人的にはそこがとてもおもしろかったです。
そしてこんなことを考えていたら、また「インターネット的」が読み返したくなりました。
参照:2001年出版の糸井重里著『インターネット的』が驚くほどの預言書だった。 | 隠居系男子
早くこの本もオーディオブックにならないかなぁ。
それでは今日はこのへんで。
ではではー!