おとといから北海道に来ています。
いま北海道の旭川にいるのですが、「だはんこくなや」っていう北海道弁が聞こえてきて悶絶してる…!色々な記憶がよみがえる言葉だなあ。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年1月21日
目的は、下川町で開催される勉強会にモデレーターとして参加するため。
ゲストはVOID A PARTチームのおふたり。
周防さん、牧さんのおふたりから多くのことを学び、とても楽しい時間を過ごすことができました。
おふたりから聞いたお話は、これから徐々に消化しつつ、またこのブログにまとめてみたいと思います。
帰りの飛行機が欠航。
勉強会も無事に終えて、今夜の便で東京に戻る予定でした。
しかし、雪の影響でまさかの欠航。。
今まで北海道ー東京間は何度も飛行機で往復しているので、雪が原因で欠航になることは慣れっこなんですが、東京に降り積もる雪せいで帰れなくなったのは、今回が初めて。
なんだかとても不思議な感覚です。
感性の記憶の話。
さて、小倉ヒラクさんが先日こんなツイートをしていました。
ベトナム・フエを散歩している時に5ドルで泊まれるバックパッカー宿の軒先のカフェでお茶している旅人を見て「わっ、いいなあ。僕も2〜3ヶ月何くらい仕事も金も心配しないでアテのない旅したい」と一瞬うらやましくなりましたが、それは過去の僕からの声で今の僕は「もうやらないかな」と言っている。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2018年1月21日
知識の記憶とは別に「感性の記憶」があります。知識と違って感性の記憶は好きな時に呼び出せるものではなく、特別な体験をした時にふと蘇ってくるものです。自分がこれまで感じてきた「感性の記憶」を喪失してしまうと、人生が薄っぺらいものになってしまうのではないか?と僕は思っていてだな。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2018年1月21日
10歳の時の自分、20歳の時の自分、40歳の時の自分にはその時にしかない「感性の体験」があって人生の厚みをかたちづくっていく。ただその記憶は定期的に思い出してあげないといけない。例えば旅をしたり、何か表現してみたり、誰かと特別なシチュエーションで一緒にいたりすると「感性の記憶」が蘇る。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2018年1月21日
感性の記憶の蘇りは「違和感」となってあらわれます。バッカパッカーを見て「いいなあ」と言ったのは20歳の僕で「今はやらないかな」と言ったのは今の僕。20歳の僕と今の僕は反発しあっているわけではなくて。「兄ちゃんいい人生送ってんなあ」「おっさんもな!」と笑顔でVサイン交わしてるんですね。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2018年1月21日
感性の記憶。とても素敵な考え方ですよね。
僕もとっても共感してしまいました。
そして最近、この感性の記憶と出会う機会がとても多いなあと感じています。
冒頭で触れた北海道弁の話もそうですし、雪で帰れなくなるという体験もそう。
なんだか今回の出張は、10代の頃の自分と対話している気分です。
最後に
そう考えると、今年30歳になる自分は、どんな「感性の記憶」を30代のうちに刻んでいくのかなと。
「どんな時に感性の記憶が刻まれるのか?」ということも気になります…。
まだまだその答えはわかりませんが、今回実際に10代の頃の感性の記憶と出会ってみて思ったのは、どの記憶も「今」の自分を全力で生きているときだったな、ということです。
なにはともあれ、感性の記憶が豊かな人生を歩みたいものです。
歳を重ねるほどに思考が柔軟に、他者に寛容になる人は「感性の記憶」を豊かに持っている人です。いつでも「自分のなかにいる違う感性の過去の自分」と対話しているから、他者に対しての好奇心を失うことがない。旅や芸術に触れるのは教養のためではなく自分のなかの他者を忘れないためですね、きっと。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2018年1月21日