道理を学びながら、ルールを知る。

最近、ブッダ関連の書籍を読み漁っています。

今は、手塚治虫の『ブッダ』を読んでいるところ。

きっかけはたぶん、この本だったと思います。


「自我のまわりに、自分が所有する世界をつくるから苦しみが生まれる。」

そんな中、昨日出会ったのが以下のような言葉です。

「自我のまわりに、自分が所有する世界をつくるから苦しみが生まれる。自分自身がそもそも自分のものではない」

「我々は、自我のまわりに自分の所有する世界というのを無理矢理つくって、そしてそれをそのまま抱えて生きていこうとするから苦しみが起こるのだ」と。

この言葉を見たときに、ものすごくハッとしたんです。

なぜなら、僕が以前、このブログ記事の中で書きたかったことは、まさにこのことだったから。

ものさえ、ものとして扱わない。 | 隠居系男子

「所有権」は、バカバカしい概念。

ヒト・モノ・コト、全てにおいて所有できるものなんてなくて、もともと。

それを所有できると勘違いしていること自体が、根本的な間違いであると。

誤解を恐れずに言えば「所有権」なんて概念は本当はバカバカしい概念なんです。

でも、権利としてそれを定めて、法律というルールに則って運用していかないと、社会が回らないから現状はそうなっているだけで。

ただ、どれだけ自分にとってはバカバカしいと思える概念だったとしても、それが社会のルールとして運用されている以上は、しっかりと学ぶ必要があるし、尊重する義務がある。(日本国民として。)

時々、「現状のルールはバカバカしい基準なのだから、ルールは破ってもいい、逸脱してもいい。」という人がいますが、それはきっと間違いです。

むしろ、自分がバカバカしいと思うものほど、ルールとしてしっかりと学ばなければいけないのだと僕は思います。

最後に

言うなれば、「道理を学びながら、ルールを知る」という態度が一番正しいんだろうなと。表裏一体で獲得していく感覚です。

(ここで言う道理とは「最も自然で合理的なやりかた」を指します。)

どちらも決して欠けてはいけないもの。

そしてその上で、知り得たルールを遵守しながら、学んだ道理を実践していく。

色々な考え方が存在するとは思いますが、僕はそう思っています。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、自分のスタンスを考えるきっかけとなったら幸いです。

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