【読者寄稿】「現代との格闘」- ヨーロッパと日本、それぞれの戦い方

初めまして。神谷と申します。

今回私は「現実との格闘」というテーマについて少し哲学的に掘り下げていきたいと思っています。このテーマは既に以前鳥井さんが取り合げていましたが、私は少し違う視点からこのテーマについて考えてみたいと思っています。(初めに申し上げておきますがちょっと長めの記事です。)

「現実と格闘する」という概念と実存主義

まず、私は一応哲学を学んでいる身なので哲学の話から入りたいと思います。
テーマの「現実と格闘する」という概念は、実は古くて新しいものです。アカデミックな哲学では「現実」を重視する考えは実存主義と言いますが、その端緒の一つとなるハイデガーの「今ここに現存しているということ」あるいはドイツ語でDaseinという言葉で表される概念が注目されるようになったのは第二次世界大戦期くらいからです。このくらいのことは高校の倫理の授業などで習った方もおられるかと思いますが、実存主義は今のヨーロッパ人にも大人気で、熱烈なファンが結構多い思想です。私は現在イギリスに留学中なのですが、こちらの哲学の講義では実存主義(特にサルトルの)は“youth philosophy”(若者の哲学)と紹介されており、一種のcounter-cultureと親和性のあるものとして扱われていました。実際、私の経験上ではサルトルの思想に肯定的な反応を示す若者って結構多い印象です。

日本と西欧の「現実」の違い

さてそのサルトルの思想の中で最も代表的かつ人気があるのは「人間存在の本質は常に未決定であり、従って人間は根源的に自由である」というテーゼです。これはもっと柔らかく言うと、「私の将来は私が自分で自由に決めるのが私の権利でありまた義務だ」というような考えです。白人に生まれようと、アジア人、黒人であろうと、貧乏、金持ち、男、女、フランス人、イギリス人、ドイツ人あるいはユダヤ人であろうと、そんなことだけでは「私」の全部は決まらないし、「私」の運命をこれらの属性に委ねて受動的に生きるのは間違った信条・mauvaise foiであって克服すべきなんだ、と。実は英米の分析哲学の伝統の中ではこんな考えはちょっと「ラディカル」過ぎるとされているのですが、本家のフランスで生粋のフランス人と話しているとこういう考えは本当に一般に浸透していて、もはや「常識」となっているという感じさえします。私なんかはやっぱり日本人ですので、「私は日本人だから。。」とことあるごとに考える癖がもうついてしまっているのですが、そんなことをフランス人に言おうものなら、人によっては「日本人だから何?あなたはあなたでしょう。」ってちょっと怒られてしまったりします。「あなたも人間、私も人間、それ以上でもそれ以下でもない」っていう雰囲気なんですね。一々出身や属性を言い訳にするな、と。これは人種や文化、言語に関してだけではなくて、性別に関してさえそうです。「日本では働く女性ってまだまだ少ないしそもそも働きたいって人が少ないんじゃないかな」という、私としては単に事実的で当たり前のことを言うだけでも、ヨーロッパでは「は?冗談でしょう?何で?」なんて聞かれたりします。そこで「だって女性は。。」なんて切り返したりしたらもうその後に何が続こうとアウトです。「それは性差別(sexism)だ」ってすぐ言われちゃいます。どうやらフランスでは本当に女も男も関係ない、というか関係ないということにしなければ倫理的に間違っているって思われてるみたいなんです。で、この考えの当然の結論として所謂LGBTだって何もおかしくないし、何の差別を受ける理由もないから同性同士の結婚も「当然」認められるべきだっていうことになるわけで、実際フランスをはじめ西ヨーロッパでは同性婚が合法化されているだけでなく、逆に性的志向を理由とした差別の方が違法化されています。日本では最近自民党政権によってLGBT差別解消法案が出されたようですが、まだ同性結婚は法的に認められていませんよね。この対極的状況からもわかる通り、日本に生きる人々にとっての社会的「現実」とヨーロッパに生きる人々の「現実」はもう「世代間格差」と言っても過言ではないくらい違うと思います。(ちなみに私自身は日本がヨーロッパみたいに性差別に対して厳しくなるべきだとは全く思っていません。ヨーロッパ出身の女性でヨーロッパの異常なフェミニズムを嫌って日本で生活する方が心地よいと言っている人も少なからず知っていますので、日本は日本でいいと思います。)

日本人として「今日」を生きるということ

そんなわけですので、「日本人として」今日のグローバル時代を生きるというのは想像以上に大変なことだと思います。私は小さいころにアメリカにいたこともありますし、ヨーロッパについてなら学校でも特に集中的に習うので外国と言ってもグローバル化の進んだ現代なら結局そんなに違いはないだろうと思っていました。実際パリやロンドンなどの大都市繁華街の雰囲気は東京の表参道なんかとそんなに違いはない気がします。並んでる店も似たり寄ったりで、最近ではユニクロや無印良品(こっちではMujiと呼ばれています)などの日系の店なんかもちらほら見かけます。物質面だけに眼を向ければ、確かにグローバル化は確実に進行しているんです。ただ、問題は思想や信条などの精神面です。比較的に内部で統一感を保ち、かつ自己の「普遍性」を主張してやまないヨーロッパと、基本的にはヨーロッパの普遍性を前提に、英独仏をモデルにして「西洋化」に邁進し続けている日本との間でさえこんなに違うのですから、そもそも「西洋化」を自分の文化の危機だと感じている人々、西洋についても日本についてもほとんど何もしらない人々等と我々日本人が深いところで「分かり合う」のはさらに難しいことだと思います。よく、「グローバル人材」という言葉が教育や就活などの文脈で出てきますが、「グローバル」と言っても「グローバル人材」に期待されているのは何と言っても「英語力」ですよね。もっと言うと、「アメリカ」でエリートとして戦っていけるような人、あるいは日本の立場で「アメリカ」に対して「モノが言える」人。でも、そういう「グローバル人材」が関わる「外国人」ってどんな人達でしょうか。やっぱりアメリカやイギリスのエリートビジネスマンが中心になると思います。もちろん非英語圏出身の「外国人」と関わることもあるでしょうが、その場合でもやっぱり英語で教育を受けた(具体的に言えば、インターナショナルスクール→英米の大学→英米有名企業→MBAなど)典型的な「エリート」が大多数を占めるんじゃないでしょうか。でも「世界」はそういうエリートだけで出来てるわけじゃない。”globe”はもっと大きい集団を含んでいる。その事実から眼を逸らさないこと。鳥井さんがおっしゃっている「今日性」というのは、おそらく第一義的には今自分が生きている時代についての反省という意味ではないかと思いますが、しかしその前提として、私の「今日」だけが「今日」だけじゃないし、大文字の「今日」があるわけでもないという認識が欠かせないように思います。経済新聞の語る「今日」だけが「今日」じゃない。英米の大メディアが語る「今日」だけが「今日」じゃない。大文字のTodayなんてないし、誰かのtodayだけがtodayじゃない。世界には他の誰かのaujourd’huiもあるし、別の人のheuteもあるし、また別のсегодняもあるし、私の「今日」だってある。日本人として「今日」を生きるということは、決して誰かのtodayを生きることでも大文字のTodayを生きることでもない。そんな形の「グローバル化」は、凡庸な画一的化にしかつながらない。もちろん、自分の「今日」の価値を絶対化するのがいいというわけでもないけれど、一人一人の異なる「今日」の中に偶然重なる共通項のようなもの、それを上手く捉えることが、メッセージ性のある表現につながるのではないでしょうか。だからこそ、自分には「自分の今日」しか生きられないということを自覚しつつ、なるべく多くの人の「今日」を理解してみようとすることが大事なんやじゃないかなと最近は考えています。別にわざわざ外国に行かなきゃいけないってわけでもない。日本を一歩も出なくても、東京にはたくさん外国人もいるし、そもそも外国人じゃなきゃダメってわけでもない。とにかく色んな「今日」があることを現実の経験として知ることがポイントです。とはいっても、私自身まだまだ発展途上で、そんな偉そうなことを言える立場じゃないのですが。。私よりももっと色んな「今日」を知っている人はたくさんいますし。そういう方々から、少しでも何か学んで前進できたらいいなと思っています。なんだか中途半端な終わり方になってしまいましたが、既に結構長くなってしまったので今回はこの辺りで。

ここまでお読み頂きありがとうございました。

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