昨日、こんなツイートをしてみました。
タレントブランドの難しさって、一般人が着ると劣化して見えちゃう危うさだと思っていて。着ている本人は、憧れのタレントと同じものを着ることができるから、大満足なのかもしれないけど、良くも悪くもタレントが着用したイメージで定着しているから、周りからみると劣化コピー版にしか見えなくなる。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年6月11日
だから、タレント本人は着用しないとか、タレント側はプロデュースに徹底して世界観のみを創り出し、モデルはしないってほうが長期的に見ると良いんだろうなあって。ドメブラが外国人モデルばかり起用することに批判もあるけれど、「商品に色がつかない」って意味ではきっと合理的なんだろうなあ。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年6月11日
「本人が満足しているなら、それでいいじゃないか!」とも思うけれど、そうするとまわりと温度差が生まれてしまう。「あの人、素敵」って思われなくて「劣化コピーじゃん」って思われると、ファン層がそれ以上広がっていかない。むしろ敬遠されてしまう。ライブTシャツなどと変わらなくなってしまう。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年6月11日
この話、タレントブランドそれ自体を批判したいわけではなく、むしろタレントブランド(インフルエンサーブランド)が今後大きな可能性のひとつだからこそ、そのやり方をもっともっと深く考えてったほうがいいのだろうなあと。
目先の利益と、長期的な拡大のバランスがとても重要になってくる。
「俺みたいになれ」「私みたいになりなさい」は確かに即効性はあるけれど、やっぱり維持継続や、健全な規模拡大には繋がっていかないんですよね。
あらゆるコンテンツに潜んでいる危うさ。
そして、この話はファッションに限らず、ものづくり全般においてそうなってくるはずで。
参照:これからの時代に売れるモノは、ツールかグッズだけ。 | 隠居系男子
有形無形問わず、ありとあらゆるコンテンツにおいて、上述した危うさが潜んでいる状態になっていくんだと思います。この流れはしばらくは変わらないのでしょう。
最後に
そうやって「個人の時代」が加速していくからこそ、個人の発信力に頼りすぎないことが大切だなと。
その発信力をベースにしながら、ちゃんと文化や場を形成していくことがとても重要になってくる。
最初の起点はたった一人の狂人だったとしても、最後は「詠み人知らず」という状態になれるように。
そんなことを考える今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとって何かしらの参考になったら幸いです。